西方で制作された仏教の造像様式の中夏地域への流入について―中国早期の仏教の造像様式に関する略説
西方で制作された仏教の造像様式の中夏地域への流入について―中国早期の仏教の造像様式に関する略説
文/見諶法師
1. 前言
佛教芸術は常に民衆への仏教伝播による仏教の興隆に伴う形で発達した。中国の「前漢」時代に「西域」と呼ばれる中央アジアから中国北方の草原・砂漠地帯にかけて、西方から中国への「シルク・ロード」が開かれて以来、貿易と軍事面を含めた政治上の必要に応じて、西域諸国と中国との間で人々の交流や物品の往来が頻繁になった。宗教や芸術等の無形の分野においても、東西地域における異なる文化や宗教の交流が、相互の地域に影響を与えあったり融合したりして、この地域の歴史的な変遷を形成して来た。『後漢書・西域傳』中に次の記載がある。すなわち、「世に伝わる伝説では、「後漢」王朝の明帝は、ある日、『体が大きくて体中が金色で、頭の頂きから後光を輝き放っている人物が飛んで来た夢を見たが、これは何を意味するのか』と群臣に問い質した。するとある臣下が明帝に答えて曰く、『西方に「神」が存在しており、その名を「仏陀」と申すそうで、彼の者の身の丈は六尺もあり、全身、黄金色に輝いているそうでございます。』と答えた。この答を聞いた明帝は、仏法の道と教義を学ばせる為に遣使を「天竺(てんじく=古代インドの呼称)」に遣した。そして、この遣使によって、遂に釈迦仏の画像と仏像が中国に伝えられたのである。
2. 佛教が西方から中国へ伝来した当時の西域と中国との関係について
「東漢」の永平時代の中期に、当時、楚王英盛が「仁祠(じんのほこら)」の中で「斎戒の祀」を行っていた時に、祠の中に古い『浮図』(中国語で『浮図』とは梵語の「Buddha=釈迦仏の画像」を音訳した仏教用語で「釈迦仏の画像や死者への弔いの言葉を記した木片」を指すが、日本では主に「死者を供養追善する為に使者の戒名や、死者への弔いの語句を記した木片の卒塔婆」の意味を指す)が描かれているのを見ると、楚王は既に仏教を信仰していた事が窺える。又、この記載に基づけば、仏教が中国に伝来した時期は、「後漢」の明帝が「黄金色の大男が飛んで来る夢を見た」と臣下に告げた時期よりも、もっと早い時期であった事も同時に推察出来る。中国と西域の交流関係は、既に「西漢」の時代に、西漢が匈奴を征伐して西域各国への道を開き門戸を開いたので、中国と西域諸国との貿易交流が開始されたのである。張騫(漢時代の著名な文学者・冒険家)に依れば、「後漢」の明帝が西域へ複数の使者達を遣わした後、(その内の)誰かが西域から仏像を中国に持ち帰ったのだと指摘している。
その後、班超、班勇、甘英、等が、西域の「安息(古代パルテイア国)」、「大秦(古代タシュケント国)」等を歴訪し、各国の珍しい物を手に入れて「後漢の朝廷」に送った。更に、明帝は、郎中、蔡愔、秦景等を「天竺」に派遣して仏法を学ばせた。彼等は天竺へ行く途中、仏教国の「大月氏」で「迦葉摩謄」と「竺法蘭」等の仏僧に遇った。そして、「天竺」から後漢への帰路、錫の白馬寺に迎えられて駐在し、『四十二章経』を翻訳した。この経典がサンスクリット語から中国語に翻訳された最初の仏教の経典であるが、その経典が天竺の社会に出てから既に三百年の歳月が経っていた。
3. 古代インドのガンダーラ文化と仏教の造像仏像との関係について
(1) ガンダーラ地域の地理と歴史について
「大月氏」はもともと「月氏」の一分派で、「月氏」が匈奴に滅ぼされた後、当時中央アジア一帯の覇者だった「大夏」に移住した。当初は中央アジアのインド西北部のガンダーラ(現在のアフタニスタンとパキスタンの北方地域とインド西北地域)地方に潜んでいた。紀元前三世紀に「馬其頓(マケドニア)帝国」がガンダーラ地域を占領したので、ギリシャ人後裔のバクトリア太守が反逆して反乱を起こした。結果、勝利してガンダーラ地域に「バクトリア国」を建国した。このバクトリア国が『漢書』に記載の「大夏」を指すのである。「バクトリア国」は、当初、翕侯(きゅうこう=日本では「大名」とほぼ同じ地位と権力を持つ)と呼ばれた五人の王がいた。
諸王の全てがバクトリア国のギリシャ化政策を推進したので、この地域一帯はギシャ文化の影響を深く受けた。ガンダーラー地域で西方から伝わったギリシャ文化と仏教文化が交流して融合して、初めて描かれた仏陀像図に描かれた釈迦牟尼の面相と身体的な外見的容貌と特徴は、ギリシャの神のイメージに大きな影響を受けている点が見出される。ギリシャ人を神に見立てた彫刻像の伝統をギリシャ人の芸術家や工匠人達から直接受け継いだのは、中央アジアではこのガンダーラ地域だけであった。

(2) ガンダーラと仏教芸術との関係について
釈迦牟尼仏陀の涅槃後に、仏教はインドと中央アジアに以前よりもっと広範囲に広がった。生前、釈迦牟尼は偶像崇拝を戒めていたので、仏教徒達は師の釈迦牟尼を思い出すと、単に隠喩的に「輪宝」だけを拝んでいた。「足印」と「菩提樹」の模様の彫刻は仏陀の説法を象徴的に表していた。けれども、人間が生きている相に、この世で釈迦仏の教えた道を成す為に、インドでは紀元前一世紀頃の早い時期に、サーンチ大塔(Sanchi)と呼ばれる死者のお骨を収めて供養する「舎利塔」が建てられた。その玉の石垣へと続いている東西南北にある四つの塔門の各門柱と塔門に掛け渡した三本の横梁には、仏陀の伝歴や様々な動物やその他の模様が浮彫りや装飾模様の美しい仏教美術を表現している。同時期にバルフート大塔 (Bharhut) も建てられた。「欄楯(らんじゅん)」と呼ばれる塔の石垣や四方の入り口になっている鳥居形の門の上や横梁の上には、無数の仏教に関わる「本生譚(ほんしょうたん)」等の故事や、様々な模様がぎっしりと「浮彫り」で彫刻されており、「本生譚」等の故事に登場する人物は数多くて、題材は豊富であり彫刻は精緻で美しい。釈迦の涅槃後、数年間には、弟子達も仏陀の戒めを守って仏陀の像は直接には彫刻されなかったが、仏教徒達の釈迦牟尼の像を造像して拝みたいという熱い思いが、遂に人々に仏陀の仏像の制作をギリシャ人の工匠人々に依頼する事に踏み切らせたのであった。
(3) ギリシャ人の神に対する観念について
ギリシャ人の神に対する観念とは、西域の人々とも漢人とも異なっている。彼等は人と神とは同形同性であり、ギリシャ神話の中には、天国の英雄・女神の像形は、この世に生きている人間と同形で完全に人間と一致しているものだと信じている。この彼らの観念に依拠すれば、ギリシャ人の工匠人達は、ギリシャの神のイメージで「仏教の神=仏陀の像形」をイメージしようとしても、最初は彼らの頭の中にはギリシャ的な神のイメージしか浮かんでこなかった事であろう。ところが、ガンダーラ地域での文化と宗教と信仰の在り方に影響を受けて、自然に自らが信じているギリシャの神のイメージと仏教における仏陀のイメージとが創造性を刺激する思惟層において融合し合って、全くユニークな最初の仏教芸術を産み出したのであった――それは、ガンダーラの地域文化が彫刻された造像仏像として、具現化されて産み出されたガンダーラ美術の創作であり、ギリシャ的な風格を備えた仏教芸術の作品群であった。
現在、残存しているガンダーラで造像されて、石窟内に安置してある仏像類に基づいて考察すると、それらの仏像は、ある面では、仏教信仰の像形のイメージが具体化された物であると判定出来る。ところが、ある別の面では、当時の仏教芸術作品の制作を請け負ったギリシャ人の工匠人達が、自らが会得して理解していたギリシャ彫刻の伝統的な技術を用いて、「仏教文化と教義による神=仏陀」が彼ら工匠人々に与えた新しい神としてのイメージと、彼らが既に持っていたギリシャ神話における神のイメージを伝統的なギリシャの風格を備えた身体の外観的な容貌を、ギリシャの伝統的な彫刻の表現法で産み出す「ギリシャの神の像+仏教の仏陀の像」という、二つの異なる文化が表す異なる風格と表現法の差異を、如何にして想像力を働かせて克服し、如何にこの差異を受け入れるか、の問題のみならず、これらの差異を表す二文化を如何に融合させて、全く新しい風格の仏像を産み出さねばならないという、内面的な審美感の差異を兼ね合わせた後に、それ等を融合させて、ギリシャの伝統的な彫刻による表現法によって、「新しい仏像」として具体化させて産み出さなければならなかったか、という、「芸術性と創造性が制作者に要求する内面的な葛藤」が理解できるのである。
(4) インドでのクシャン王国の成立と仏教保護政策について
当時の中央アジアでは各国の攻防や併合等が激烈で、月氏も「大夏」に移住した後で「休密(ショウミ)」、「雙靡(ソウビ)」、「貴霜(クシャン)」、「肸頓(キトン)」、「都密(ドウミ)」の五つの部族に分かれて、それぞれの部族の翕侯(きゅうこう=「諸侯」で「王」の地位を指し、日本なら「大名」と等しい権力を持っていた)の五名を、各部族を支配する責任者に任じたが、後に、「貴霜(クシャン)部族の翕侯の丘氏が、他の四部族の翕侯四名を攻め滅ばして、ガンダーラ国の王に即位して「貴霜王(クシャン王)」と名乗り、クシャン王朝を設立した。即位後、「安息(パルテイア国)」、「高附(ガオフ)国」、「濮達(ブクタ)王国)」、「罽賓(ケイヒン国=現インド北方の「カシュミール」地方)」等を侵略し、略奪したり滅ぼしたりして国力を拡大し強化した。
後に、クシャン王朝は、第三代目の迦膩色迦王(カニシカおう)が天竺国を滅ぼして、今日の中央アジアのアフガニスタン、パキスタンとインドの中北部を仏教で結んで、仏教崇拝地方の版図に組み込んだ。カニシカ王自身が熱心な仏教徒であったので、第四回の仏典大会をガンダーラ地域で挙行した。その為、大乗仏教は、先ずこのインドの西北部のガンダーラ地域を中心にして興隆したのであった。仏教芸術は、ガンダーラ地域やインド北部の「秣兎羅(マドウラ)」地域等々で非常に盛んになり、仏教芸術史上最も重要な時期を形成した。中国の歴史書による「大月氏」とはこの「クシャン王朝」を指す。今日では、ガンダーラ地域の「白夏瓦博物館」に早期の最も珍しい仏教芸術品が収蔵されている。
4. 范曄(はんよう)による仏教の基本的な教義とは何か
『後漢書・西域傳』において、范曄(はんよう)は次の様に仏教の基本的な教義についての意見を記載している。――「例え、『浮図』を何枚も並べて死者に哀悼を捧げて祈っても、我々人間が生きている間に殺生をせず、何事も(仏教の教えとして)言い伝えられている様に、優れた教えや良き方法に従って日々行動していれば、何事も無理無く自然に達成出来るのではないか、と思う。」とある士大夫が言った事を聞いた後で、私はこう答えた: 「(西域にある)其の国は(中国より物質的に豊かでなくても、人々は何事をするにも、皆、仏法の教えに従って心を込めて物事に対する)真摯さに満ち溢れた精神的に意義ある生活を送っている。それなのに、中国では、『玉と燭とは気が合うように、何事も何となく皆で一緒にすれば巧く行く筈』とか、『精霊の集まる所は賢者にとっては善い所で、気を使わず何もせずとも心安らかに挺してさえいれば、何事も巧く行く筈だ』等々の、物事に対する真摯な態度で積極的に行動を起こす『意気と活力が見られない。』 例えば、神の跡を追って信仰を深める行為は、危うくて定かでないと消極的に見ており、しかも、神の跡を追って信仰を深めたいと願う人間が死に至った時に、神も天も、(あなたは仏教の信仰が薄かったから)死後、極楽へ行くのはだめだ」等と言って拒絶しない筈だと安易に思っている。このような言動をする人は、信仰に対して真摯でなく、真実、信仰する心が無いのをはっきりと感じるのは、天さえも心外だとは思わない正当な感じ方であろう。
更に、漢の時代から楚英王が『浮図祠』で『斎戒での祀り』を行い始めたので、民衆の間でも(『浮図祠』の中に入って『浮図を建てて』ご供養をしたりして)「斎場での祈り」を盛んにさせたが、桓帝は棺桶の蓋の上を飾りたてる様な表面的な形式面だけに気を取られて忙しくしており、仏教の教えや人間の生死とは我々人間の毎日の人生にとってどんな意味が有るのか、(『人は何故苦しい人生を送る為に生きているだけなのか』)という意味さえも民衆に解釋して解釋しようとさえしない。
さて、「神明とは何ぞや?」という問いに関して、(斎場で多数の『浮図』を並べ立てて立派な斎戒の様式を整える形式的な面を重んじる事が正しいのか、或いは、形式はどうであれ、死者の哀悼を心から弔う気持ちで御霊の成仏を祈るのが正しいのかを)私は一生懸命に追及して詳細に人々に解釈して仏教の説法をせねば、人々は私が欲得を交えず清い気持ちで説法を話しても、聞く人々がつまらないと思って疲れてしまう様な教訓ならば、仏法の教えは無駄で効果も無くただ「空しいもの」であり、どんなに価値ある事でも聞き手に遣わして伝える事は無理であろう。
何事も心と慈愛の念を込めれば、例えば、『浮図』に仏陀の像を描いたり、哀悼文を書いたりしても、筆捌きは流麗で流れる様になる。儒教の教えの博愛心や慈愛心を持って人や事に当たれば悪い事でも防げる上に、世の中の弊害を除く事は善き事であり、崇め尊ばれるべき事だとの教えもある。賢者であり君子である筈の士大夫の諸君にとっては、尊い仏法の教えに対する慈愛と博愛の気持ちを抱くべき「人の心」を持つ事が、どれほど重要である事かを心から理解してはいない己自身の不徳さを知っているのか、知らないのか、さあ、どうなのだろうか?」と話したのであった。
佛教における慈悲と平等の教えは、弊害を除く事は善き事で崇拝すべき事だし、慈愛の心を持って良き事を為せば悪をも防げる信仰心の深さがあるので、シルク・ロードを往来しながらも、インドの僧侶は頻繁に東方の我が中国に来てくれている。加えて、中国内の士大夫層はインドと中国の間を行き来してくれる僧侶や法師を慕っている。例えば、『魏書・釋老志』、『高僧傳』、『大唐西域記』、『開元釋教録』、等の書籍に依れば、この頃インドから東方の我が中国に来てくれている高名なインドの法師や僧侶は25人を数える。十六国時代の「後秦」時代には、インドの天竺から「鳩摩羅什」法師がわざわざ中国に来てくれて、インドから中国へ伝来した旧約の仏典や経典類の翻訳を一生懸命に大整理してくれたのだった。「東晋」の法顕も、「和闐(ホータン)」や「天竺」経由で陸路を辿ってインドへ行った。インドへ行ってから十五年間、仏法の教義を修得して経典や天竺の言語を修めた後、やっとインドからスリランカとスマトラを経て海路で中国の山東に帰って来た。南北朝時代には、西域から東方の中国に来てくれた高僧達の間にも、インド語の経典を中国語に翻訳してくれた高僧は多過ぎる程あって、歴史書に全部の高僧の名前を書けない程いるのである。
5. ガンダーラ様式を表す仏像と漢民族化された風格を持つ仏像の差異について
佛教が西域から東方の中国へ普遍的に伝播されるに従って、仏教の教えを広く流布するには、仏教芸術の造像する仏像のイメージをどの様に形像に対して、民衆の関心が以前より高くなって来たのは事実であった。1980年、江蘇の連雲にある孔望山で「東漢」時代の石に刻んだ造像が発見されたが、その中の幾体かの仏像の頭の後ろには光背も刻まれており、仏像の頭の頂きには肉髻があり、衣服は肩から袈裟を流している。これはインドのクシャン王朝期のグプタ様式で造像されており、ガンダーラ地域で最も早期に造像された仏像群と相似している点が多い。その後、四川省の楽山麻浩一号の崖墓と柿子湾崖墓門に掛けてある額の上方に、身体はどっしりと厚重で袈裟を掛けて、衣紋は流暢な跏跌坐像(かふざぞう=両足の甲を反対側の足の股の上に組んで「胡坐で坐った」仏像)の風格は、ガンダーラ様式の影響を顕著に受けている。彭山崖墓から出土した「揺銭樹(ようせんじゅ=西域に広まっていた人間の想像力でイメージされた『揺すれば金銭が落ちてくる樹』の模様。民衆の仏教を信じて資産家になりたい願望を表現した想像上の樹)」は陶器製で、樹の下には坐像の御仏一体と比丘像二体、の合計三体の造像坐像が配置してあり、全体の風格はガンダーラ様式の余韻を受けている。山東沂南漢墓の線彫りの結跏跌坐像(けつかふざぞう=両足を組んで坐っている像)は蓮華の台に座っていて、頭の背後に光背がある仏像であり、この種の座像が後の世代の仏教造像の標準様式の雛形を成している。『三國志・呉劉繇傳』の中で笮融(さくゆう)は、「当時の大半の『浮図祠』には、銅で人の形を造像し、その表面を黄金で塗装して煌びやかな錦の衣服を纏わせた造像仏が安置してある。祠の建物は鋼材で垂直に九階建ての大きな槃盤様式で建築されており、階下の各階には「閣道」と呼ばれる廊下があり、全体で三千人は入れる程の大きな建物である。」と述べている。この記載は、中国の早期において造像仏を安置して民衆に御仏像を参拝させる目的で建築した寺院建築様式を述べた最初の記載である。
この時代のこれらの造像仏は、もともと仏像類が制作されたインドの風格を備えてはいたが、両方の頬は豊潤で、五官は美しく流麗で娟秀美(けんしょうび)に溢れており、芸術的な表現の視点から言えば、既にもともとのガンダーラ様式の仏像群とは、趣を異にしている。この時代の仏像の衣服は薄着を体に纏っており、褶紋は平行で緻密であり、優美で繊細で精緻な風格に近い。この種の風格は、中国人の塑像制作者の工匠人々に素早く吸収されて中原の伝統的な士大夫の好みと風格と融合させた。彼等はインド仏教の図像のイメージと漢民族の芸術観念を結合させた新しい仏像を創造して造像した。『法苑殊林・敬佛』に記載してある箇所を、以下に直接に引用する。
所謂「(漢民族は)長い歳月の間、泥水に浸った苦しみを抱いて、西方で造像された仏像を拝みながら何千にも上る斎祀を営んで来たが、造像の図像イメージや石材に彫刻する西方の制作法が「夏」を経由して中国に流入した後、中夏双方の異なる文化と仏像の図像を融合させて一体化させ、中原の華人士大夫の高い文化と好みを中心に形成された漢民族風の仏像の図像イメージが造像仏像に反映されたのである。漢民族化された造像仏像は、銅の鋳型の上に金を熔金した金熔鋳造法で造像された仏像であるといえども、この漢民族風の風格を漂わせている金熔鋳造法で造像された仏像類は、華人の名工匠達の必至の努力と創造力によって、(それまでの西方で造像された石材に彫刻された仏像とは異なる)新しい漢民族の風格を持つ仏像の新造像制作様式を創造して造像した偉大な結果である。
と説明してある通りに、中国に仏教が伝来し花開く迄の過程で、仏教芸術分野における華人工匠人達の創作意欲と創造力とが、伝統的な中原の士大夫の審美感と宗教に対する敬虔な情操が漢民族風の仏像に表現されていると指摘出来よう。
南北朝期に至ると造像仏を安置する為の寺院の規模は壮大になり、光輝く程に煌めいた趣を呈して来た。例えば、道安が造像した仏像類は、襄陽(じょうよう)にある檀渓寺に安置した仏像は身が六丈の高さの釈迦仏像であり、又、(その襄陽地方から杭州西湖の南地方の)「竺」地方へ出る山道が隣接した山陰にある昌源寺に安置した仏像は無量壽(阿弥陀)仏像である。また、著名な彫塑家である載逵(たいぎ)と彼の子息の載顒(たいぎょう)とは、山陰の霊寶寺の為に木製の弥勒菩薩像一体と服侍役の菩薩像二体を造像した。加えて、南朝の宋王朝の武帝の詔により無量壽(阿弥陀)仏の金像を、明帝の詔により身が六丈の高さがある御仏の金像を造像した。また、梁の武帝の詔により光宅寺、愛敬寺、同泰寺等の為に、身の丈六丈もある無量壽(阿弥陀)仏の金像を造像した。
北朝による造像制作は石窟の開鑿も含めて、南朝よりも更に壮大な規模で展開された。例えば、黄河は中国とインドの間を往来する交通水路上の要所でもあったので、黄河の両岸の西北高原の各要所には、行き交う船上からも見える様に高所に到るまで、偉大な中国皇帝の権力を示す気迫と威容を誇る広大で壮大な石窟群を開鑿した。これらの石窟群に安置された仏像群及び石窟群の壮大さは、既にインドで開鑿された石窟群と仏像群の質と量を遥かに超越した規模であった。

考古学的な目的で発見されたこれらの仏像と、造形の上で類似している造像仏像に「東漢」末の造形類があるが、それらの造像仏像は円い摶形でありデザインも稚拙で、塑形も題材もはっきりしていないばかりか、往々にして神仙道教の形像のイメージと混在している。例えば、江蘇連雲孔望山の石壁に刻まれた仏像類は彫刻の題材が複雑で、中には、神話伝説や仏教や道教等に関係した題材内容を表す物もある。仏像が纏っている天衣は中国画の中に描かれている前記の諸物語と関わりの有る人物達の衣服とほぼ同じタイプの天衣を纏い。
徐州の魯南一帯で絵画の中に描かれている様な石像の風格の趣を持ち、しかも神仙道教に関わる人物像類と一緒に並べられている。
現在、南京博物館に収蔵されているのは、1942年四川の彭山から出土した陶器製の「揺銭樹」上に座っている坐仏像と、その仏像の下部の壁には二匹の龍が銜え合っている像が有り、その上端には一体の坐仏像が安置してある。その仏像の頭の頂には高い肉髻が結んであり、肩から袈裟を纏い、左右に各一体の服侍役の菩薩像計二体を従えているという、典型的な仏教の造像一式の形式を表している。「揺銭樹」とは、中国の神話の中に出て来る想像上の樹で、一般的には、ほとんどの樹と座を組合せて制作するので、樹の材料は銅で、座は陶製である。題材は、大抵、「西王母(中国伝説上の美仙女で不死の薬の所有者)」、「東王公」、「四霊」、「飛仙羽人(羽を持った仙人)」等を用いて造像した。「漢」末の乱世は神仙の方術が流行した時期で、当時の民衆が不老不死の長寿を渇望したり、羽根を持つ仙人が自由に空を飛び回る等の幻想意識を持ったりしていたのを造像に反映させている。大半の「揺銭樹」の造像物は、四川省にある寺の境内で出土しており、綿陽にある何家の山から出土した「東漢」期に建立された一号墓の中から、一株の銅製「揺銭樹」の幹の上から下にかけて、五体の仏像が配置されている。仏像の身の丈は「6.5」センチで、頭の後方には円形の頭光を持ち、上唇には口髭が有り、通肩で天衣を纏い、両足を開かず組んだ結跏趺坐像で、右手は禅定印を結んでいる。
6. 造像仏像類の造形を漢民族化する過程について
(1) 仏教の仏像類と華人の伝統的な神や仙人崇拝の造像物類との混在した組合せとその背景について
佛教が西方から中国へ伝来した初期には、仏教の教義は未公開であった。西方から仏教の高僧が頻繁に中国へ来ても人数が多くなく、中国の中・下層階級の民衆にとっては、「御仏」という言葉の意味さえもぼんやりした語で、はっきりしなかった。その為、仏像を造像して民衆の前に他の諸神仙等と並べて展示すれば、「御仏」の語が意味する「もの=仏教の教義」を把握し易いと思い至ったのも自然の成り行きであった。民衆は諸神や仙霊に対すると同じ態度で「御仏」を崇拝・尊敬して、審美的な感覚を呼び覚まして仏像を塑造した。そして、御仏の形像を用いて墓室を装飾したり、綺麗で見栄えが良い器や人々が日常的に好んで用いている皿や器を用いて、墓や死者の位牌に供物を供えたりした。仏教芸術はこのような雰囲気で徐々に民衆の生活に浸透して行ったのである。沂南の像画には、石造りの墓の中で見つかった八角柱に、細かい「線彫り」が施されており、人の身を模した像には円光があり、八角柱の南面と北面の相対する位置には、「東王公」と「西王母」の像が蓮華台の上に分かれて立ててある。
また、四川の麻濠漢の墓の上の額の横梁の上には仏像が配置された「線彫」が施されている。当時、墓の額の横梁は、一般的には、神仙や青龍白虎等の霊獣の絵を描いたり線彫りした空間であるが、それらの像形に換わって、御仏像が配置されて線彫りされたのである。彭山から出土した「揺銭樹」には、本来「西王母」が配置される位置であったものを、仏像に換えて配置されたものである。この様な現象は、インド仏教芸術が、仏教が民衆に伝播されるに従って、中華の土地でインドと中華の相互の造形芸術が融合する過程を顕示している。
1956年に湖北の武昌にある蓮渓寺で、朝廷軍の守備隊長だった彭盧の墓の副葬品の中から仏像模様が彫り刻まれた金銅製の帯飾りが発見された。それが制作された時期は、鑑定に依れば三國時代の孫呉英安年間(前世紀258年-263年BC)の筈だと言う。その他の副葬品の中には、金銅製の器の表面にも仏像の模様が刻まれており、頭の頂には高髻があり、円形の頭光を持ち、裸の上半身には頸から両肘にかけて天衣が掛けられており、天衣の長い条帛は両肘の箇所でそれぞれ上に跳ね上がっている。下半身には長い裙を着けており、蓮華台の上に素足で立ち、両側には各々仰向けの蓮が一つずつ刻まれている。ほぼ同じ時期に南京の趙士で、三國呉鳳凰三年に製造された銘がある穀物貯蔵用の大罐にも、『貼塑』と呼ばれる貼用検査標の上に、主に御仏の浮き模様が現れているのが発見された。考古学文献資料に依ると、三國時代は特に呉国孫氏が仏教を広げる為に尽力し奨励したので、仏教の広がりが突出した全盛期であり、江蘇、湖北、及び南京から出土した文物類は、当時の呉国に於いて制作された物がほとんどである。当時仏教が広がったのは、沙門法師の康僧が呉国から各地へ出向いて行って、親しく民衆に仏教を広める活動をした関係もあるかも知れない。

考古学分野に関する記録に依れば、中国で早期に仏像を造像し始めた時期に、仏像の形像の意義は不明瞭であったとは言え、造像された仏像の特徴は、美術的な観点から見ると大変無垢で純真で、仏教教義の意味を明らかによく理解して形像のイメージを仏像によく反映させて表現している。大部分の漢民族風の仏像イメージは、インドで造像された仏像の形像様式と符号している。それらの類似部分としては、仏像が円形の頭光を持ち、頭の頂に高い肉髻があり、肩から袈裟を纏わせるか或いは裸の上半身には飄帯を着けて、下半身は裙を着けている、等の諸点である。
このような類似した特徴を持つ仏像を制作した現象によって、当時、中国の造像工匠人達が、インドから伝来の仏像を基本的な造形の規範として仏像の特徴を表現して制作しており、中国古来の神や仙人の造形のイメージとは明確に区別して、信仰の対象の差異を意識し敬意を持って仏像制作に励んだ事が認められる。
(2) 仏像の造形が漢民族化を表現し始めた時期と社会的な背景について
但し、別の角度から更に観察して考察すれば、子の様な造像仏上の特徴がインドで製造された仏像の容貌と似てはいるが、身体的な外観や姿態の面では、中国で造像された仏像とインドで造像された仏像とは、様式がやはり同じではない点が認められる。
中国の伝統的な神や仙人の像形のイメージには、華人に造像物を「擬人化」させてもともとの原型を変化させて表現出来る審美感と創造力に基づいたイメージ表現様式の両面に跨る素地がある。その為、審美的な功能について言えば、華人が外国から伝来した異なる宗教的な観念の影響を受けても心理的に動揺せずに、先ず、中国古来の神や仙人を崇拝し敬う伝統的な観念が設えた華風の審美感も変化させた。次に、中国の古い文物や文献の記載に基づいた華風の審美感と漢民族文化を合わせた芸術的な風格と、外来の異なった宗教である佛教の教義内容と観念とを融合させた後で一体化させた。そして最後に、一体化させた漢民族風の風格と審美感を持つ表現様式を、外来の仏教の新しい仏像の像形のイメージとして、造像する仏像の上に実際に体現させる事が出来たのである。
普遍的な意義の視点から考えて見れば、初期の仏教の仏像類の像形物は、中国古来の神や仙人の像形物類と共に、装飾画や壁画等に混在して描かれたり、造像仏像を混在して配置されたりしていただけであり、仏教の仏像類が単独で独立した仏像として仏教信徒達によって拝まれる対象になった事はなかったのである。この事実からも分かる様に、仏像の題材としては、出来る限り各種の物を題材に取り上げて、可能な限り造像物として具現化して展示する方式を採ったのである。結果、墓室内の壁に仏像や仏教の故事を彫刻する事、金銅製の帯飾りの上に仏像を彫刻する事、陶製テラコッタの上に貼る塑製票の表面に仏像を浮彫り手法で刻む事、石壁上に仏像や仏教の故事を線彫りする事、祠や塔の門の梁の上に図像のイメージを描いたり刻んだりする事、等々、人間の生活と生命を結合させたイメージを反映させた造像物として具現化して表現した佛教芸術品を産み出したのであった。
7. 結び
漢末から南北朝時代に到る迄、中国は長期に亘って戦乱が続いた。門閥親族間では互いの勢力争いで支配力を拡張し、外敵である別種族が継続的に侵略戦争を仕掛けて来た。貧富の差は両極端に拡大して、朝あった生命が夕方迄保てるかさえもが保証の限りではなかったのである。儒教による哲理を基に形成された政治機構や社会制度を支えて来た倫理観や秩序を守りながら、その哲理のみに頼って世を治める事は不可能になった。各階層の人民の全てが宗教と霊魂崇拝によってこの世に生きる苦しみから逃れたいと願った。仏教が中国に伝来した時期は、実際には、中国は最も混乱していた変動の多い激動の時代であった。中国人は、生と死に対して一種の悟りを得て、又、人の本性・本質と宇宙の万物の概念について、以前とは全く同じではない理解方式に到達したのであった。仏教が中国に伝来してから、大乗仏教が盛んに布教されていたが、中国人は、大乗仏教も小乗仏教の教義も同時に受け入れた。魏・晋時代には、中国の上層社会が仏教を信奉し始めたのだが、仏教の教義は世の中にある大部分の士大夫の世家・豪族階級の間に流布されたばかりでなく、士大夫や高僧達の間でも不断に学び合ったり議論し合ったりして、無形の方式によって仏教の学説や教義の伝播・拡散を促された。
北方から侵入して来た統治者である鮮卑拓跋部族の貴族や民も仏教を受け入れて、称賛したのを始めとして、例えば、『御仏図』が「後趙」王朝時期には広く流布されて、華人に仏教が受け入れられる様になると、遂には「北方から中華の国に侵入して来た異民族君主が仏教を信奉するのは、(別の宗教に属する)シャーマン達が中華の国に来て、呪術によって一般大衆を迷わす様なお告げを振り撒くよりも、よほど高い見識のある融和策だ」という言葉まで流布された程支持されたのであった。儒学は漢民族のみを重視し、夷狄と看做される異民族の人々を厳格に分け隔てする教えも入っているので、仏教による「人間は、皆、平等である」という平等の観念に基づいた教えは、儒学の教義の如く異民族の人民を差別せずに、侵入者である異民族に属する統治者である北魏皇帝とその民達も、中原の漢民族の民と同等で平等だと許容する仏教の教義は、異民族の民も中原の漢民族の民も同じ中華の民として融合させて、上層部指導層の権力闘争によって寸断され破壊された中華の国を統一国家として再建国する為の理論的な根拠を全ての人民に等しく提供したのであった。
このような社会的な風潮に基づいて、仏教は中国で発展する条件が整って、長江の南北には仏教の伽藍が建立され始めた。そして、『浮図』も(同時にそれらの『浮図』を保護し管理する『浮図祠』=仏教寺院も)競争するかの如く乱立し始めて、石窟も大挙して開鑿され始めた。美術史の視点からこれらの社会現象を考察すれば、仏教の寺院建立に沿う様に、造像制作や壁画を描く美術的な活動も活発になった。例えば、ハーバード大学のフォード美術館が現在所蔵の「一体の御仏像で五胡十六国時代に制作された鎏金銅(りゅうきんどう)仏像は、造形上はインドのガンダーラ様式の風格を備えている。仏像の頭の頂には高い髻があり、唇の上には八の字の口髭があり、眉間には白い白毫を持ち、面相は中央アジア人的な容貌で、肩通しに袈裟を斜めに掛けており衣服の褶線の重ね具合は均等で流暢であり稜痕は顕著であって、インド様式で造像された金銅仏像であるという、強烈な風格を漂わせている。最も重要な点は、肩通しに纏っている袈裟には火焔紋が見出される事である。この種の仏像に「火焔紋付き袈裟を肩通し式」に纏わせた服制と着衣法は、現在のアフガニスタンの北方から出土した造像仏像の内の数体の例にしか見られない特徴である。尚、鎏金銅仏像の鋳造法は、先ず、蝋で仏像の鋳型を作り、その中に溶銅を流し入れて銅仏像を造り、最後に銅仏像の表面上に金箔を貼り付けたり、溶金を塗付したりして造像した仏像を指す。
中国の五胡十六国時代に造像された仏像類は、西方の影響を受けているとはいえ、造像仏像の造形は既に変化しており、大体の仏像の造形には甚だしい変化は顕著には見えないが、やはり漢民族化の兆候が露呈し始めているのが分かる。仏像も以前の様に「一具の造像物類の内の一部分」であった扱い方とは異なって、この時期になると、既に仏像は独立した一芸術品としての扱い方をされる様に変化した。「後趙」時代の石虎の健武四年に造像された金銅仏像で現存している仏像が、現在最も早い時期に制作された銘を持つ「圓彫り」方式で制作された金銅仏像である。これ以後、独立した単体の仏像類は普遍的に出現している。これ等の仏像は、頭髪を高い髻に結い上げて高く聳え立つスタイルを見せており、刻みは精緻で繊細で、額は広くて平らである故、ガンダーラ様式の特徴も見出せる。御仏の面相は、既に目は深くなく鼻も高くなくて、典型的な中国漢民族の容貌を持つ仏像として出現している。口辺の角は上に上がり、微笑が柔和で、服制は胸部の前がU字型になっており、稜線は平行である。造像仏像の芸術が西方から東方の中国へと伝わって以来、中国の芸術家達は、間断無く審美感覚を磨き、中原の伝統的な華人の風格と文化の高さと好みを表現する為の造像仏像芸術を不断に追及して、遂に漢風の風格を反映させた仏像を創造したのである。それらの伝統的な中原文化の高さと風格に満ちた造像を具現化し創造した造像仏像は、漢民族化された仏像の典型的な実例だと言える。
石窟を開鑿する芸術活動も継続的に続けられていた。例えば、敦煌にある莫高窟について言えば、「西晋」時代の「竺法護番号」は、「敦煌菩薩」を指していた。「北涼」時代にインドから高僧の曇無讖(インムジン)が敦煌に来て定住して、経典の翻訳をしていた。当時、敦煌は「小さい町(「町」とは「土地」と同義語の隠喩表現)と材料(造像用資材)がうまく合えば、多くの塔や寺が建立される」状況であった程、仏教が盛んであった。石窟寺も相次いで生まれ、『莫高窟記』に依れば、「敦煌から東南へ約二十里ほど離れた三危山の頂上に、(後)秦時代の健元中期に、沙門法師の楽樽が、錫の杖をつきながら歩いて敦煌の三危山の付近まで来た。遥か彼方からその山を敬い眺めて、『あの山は、頂から金色の後光を輝き放っている。その神々しい有様は、まるで千体の御仏様方が、一緒になって一斉に光を輝き放っていらっしゃる様だ!』と驚嘆の声を上げた。そして、遂に山崖の嶮しい岩石を鑿で刳り抜いて龕を鑿出した。そして、その洞窟の中に大きな仏像を造像して安置した。
次には法良法師が西方から敦煌に来て、様々な神がかりな出来事を見たり聞いたりした後で、二、三、年前に樽師が刳り抜いて造った洞窟の龕の側に別の龕を鑿で彫り抜いて洞窟を造った。その上、伽藍も建立したので、この二僧が莫高窟の開鑿を始めた様なものだったのである。」この記載に基づけば、敦煌の莫高交窟は、後秦時代から開鑿が始められて、現存する早期の洞窟内に安置されているほとんどの塑像群は、五世紀迄の間に造像された仏像群である。第268、272、275等の各窟は、「西涼」末期から「北涼」末迄の期間に造像された現存する最も早い一組の洞窟である。例えば、275窟について述べれば、長方形の単室窟で、天井は「人字披(切妻形)」窟頂で、西壁には塑造された一体の交脚弥勒菩薩の大像が、椅子様の獅子座の台に坐って安置されている。交脚弥勒像は中国の南北朝時代に造像された独特の特徴を持つ仏像の形式で、交脚で座る風習を持つ北方遊牧民族の坐式礼儀作法を反映している。御仏は、頭に三個の宝石を嵌め込んだ化仏宝冠を載せている。胸には装身具の瓔珞(ようらく)を付けて、下半身には薄手の細い襞のある裙を着けており、方形の七宝台の摩尼殿上の獅子座に座して、面相は沈思しているイメージを表す。瓔珞とは、古代インドの男女貴族が頭、頸、胸等に付けた、珠玉や貴金属類を複数本の結び糸を合わせて編み込んだ装身具で、後になって仏像にも装身具として付けた物を指す。仏像全体は、厳粛で重々しく雄大で強壮な北方民族の気質を漂わせている。この莫高窟が発見されたのとほぼ同時期に、天水の麦積山と永靖の炳霊寺でも石窟が発見された。これ等の早期に開鑿された石窟の中の造像仏像類の大半の部分が、既に壊れているのが惜しい事であるけれども、残存している部分を詳しく観察すれば、漢民族化の過程の名残が認められる。仏教における造像仏像類の漢民族化された造形物を見るには、更に鮮卑拓跋部族によって中国北方領土が統一されて、孝文帝以後の大規模な漢化推進政策によって、南朝の士大夫の文化の高さと好みと風格が漢民族化されたイメージを反映させた「秀骨清相」風の造像仏像の上に表現される様になる迄待たねばならない。
仏像彫刻の造形は、西方から来た外来の物であるが、インドではギリシャ化されたギリシャ文化の風格の影響を受けながらも、インドの土着の芸術と審美感とを融合して一体化した後で、インド文化とその風格を反映させて表現した、所謂、「グプタ様式」と呼ばれる造像仏像類を創造して産み出した。このインド風の造像仏像でも最初はギリシャ人の彫塑家によって創造されて産み出されたものである。その為、仏教芸術が中國で西方の風格の影響を受けながらも、西方文化と中華の文化の二つの異なる文化を融合させて一体化させ、中華の工匠人達が共に努力して漢民族独自の仏像を造像して創作して産み出したのは、仏教芸術という一芸術分野の本当の意味での独立を果たしたという事実を証明している。漢民族化による最大の作用を仏教芸術にも、同時に、後世の我々にも与えたのである。
中国の彫塑制作の伝統は、三千年間以上もの非常に長い期間に亘る以前まで遡る。芸術として成就した「像形」に属する最も主を成す表現物としては、陵墓に入れた俑像や、古墳の壁に残した様々な物体の彫刻や壁画や、仏教の造像仏像作品等が指摘出来る。漢代の陵墓や古墳等に副葬品として添えられた石材に彫刻した獣類、墓室内部に「線彫り」を施したり、陶製の俑像を入れたりした事等も芸術活動の一環であると見なす事が出来る。「秦」の時代になると、世に名高い始皇帝の陵に副葬品として添えられた多数の兵馬の俑像や夥しい数量の立体的な造形物を、陵墓内に副葬品として遺体に添えて埋めた。この様な華人の持つ精巧で緻密で堪能な芸術的な技芸の伝統は、仏教が西方から中国へ伝来した当時に一緒に運ばれて来た仏像類の面相は、目が深く鼻が高くて、薄い衣服を纏った西洋人の容貌を持ち、衣服の風習と好みが仏像全体に反映されていた。そのような「古制」のイメージを基にして造像された仏像に、中原の伝統的な文化を受け継いでいた士大夫を中心として文芸分野に関心が高い中国人は段々と違和感を持つ様になった。結果、中国の芸術家達は、西方の容貌と文化を基にして彫刻された仏像類の造形イメージを爐で溶かして吸収し、西方文化と中国中原文化の二つの異なる文化を融合させて一体化させた。そして、従来の仏像とは異なる、漢民族の文化の高さと好みと風格のイメージを漢風の新しい仏像の造形として創造し、漢民族化された風格を持つ仏像として創造して産み出したのであった。その為、漢民族化の過程を通り抜けて全く新しい漢風の仏像を創造した事実は、結果としては、一種の中国化された造形芸術だと言えるのである。
