仏塔と仏教の道――仏教芸術における仏塔の意義と形式(一)
仏塔と仏教の道――仏教芸術における仏塔の意義と形式(一)
文/見諶法師
1. 前言――「卒塔婆」の由来
仏塔とは、梵語では卒塔婆(stupa)或いは、塔婆(thupa)(注1)と呼ばれる。今日、我々が知る限りでは、古代インドの早期の死者の御霊のご供養用の斎祀の風習では、人間の死後、遺体を荼毘に付して火葬した。火葬後に遺骨を拾い集めて、墳塚を掘って遺骨を埋めた。その墳塚の形状は簡単な半円形の土を盛り上げた形であった。「卒塔婆」とは、遺骨と灰を埋めた墳塚、或いは、四角の墳墓、を指す。早期のインド社会は、アーリヤ人(Aryan人で白人種の一種)の文化を基礎に建設された社会で、彼らが信じていた四種類の姓時代で社会の階級制度に基づいて、人間を四種類の階級に分けて支配したので、墳塚を建立出来たのは貴族階級だけであった(注2)。
仏陀が仏教を創立した時代は、インドは国外からの侵略を受けて政治的に混乱していた時代であった。複数の種族が共存する社会構成は複雑で、各種の複数の思想は分岐していた。呪術による祭儀が横行していて、インド社会での階級制度(カースト制度)の分別に束縛された厳しい掟を誰も破る事は許されなかった。そんな厳しい階級社会では、「人は皆、平等であり、慈悲を持ち、殺生をせず・・・」と教えた仏陀は、偉大な生命の導師であった。それで、仏陀が涅槃する間際になると、多くの信徒も弟子達も非常に哀悼の気持ちで、憂いの思いに沈んで悲しんだ。仏陀の使徒の慈佑は、仏陀に指示を求めようと頭を挙げて、「世尊が涅槃された後、導師の為に私達はどうしたらいいのでしょう?」と聞いた時、仏陀は「私の為には何もせずとも良い」と答えた。「現在、世間で起こっている事は、全て皆不安定で、人の生命や安心な生活を破壊する「相」を帯びている。この「(悪い)相」に執着して関わり合って対応に苦慮するのを避ける事。只、一途に仏教の道に向かって、一心に祈りながら言動を仏教の教えの通りに戒めて、『悟』を開く事が大事なのだから。」と訓戒した。釈迦牟尼は弟子達に自分の像を造像して拝む様な「偶像崇拝主義」に執着せずに、精神面を重んじて「悟を開く事が大事だ」と遺訓したのであった。仏陀のこの遺訓によって、仏陀の涅槃後、仏陀の弟子達は当時の風習に従って仏陀の遺体を荼毘に付して遺骨(舎利)と灰を集めて墳塚を造った。その塚(卒塔婆)の前で、仏陀の御霊の御冥福を継続的に祈ってご供養を続けたのが「卒塔婆」の由来なのである。
2. 仏塔の出現
紀元前五世紀頃、仏教は既にインドで流布されていたが、当時のインドの西北地域は、ペルシャ(現在のイラン)の王に統治されていた。紀元前四世紀になると、ギリシャ人系マケドニア国のアレキサンダー大王が、ギリシャからインドへ大遠征を行った為に、当時のインド西北部(及び、現在のアフガニスタンとパキスタン両国の北部地域を合わせた地域)のガンダーラ地域は、ギリシャ文化の影響を深く受ける事になった。この状態は、紀元前317年にマウルヤ(Maurya)王朝が北部インドを統一する迄続いた。仏教の教義である「人は、慈悲、平等、殺生をせず・・」の教えは、当時のインドに共存して住んでいた異なる階級に属していた民衆を深く感動させた。
マウルヤ王朝を継承したアショーカ王(Asoka=別名は『阿育王(あくおう』、在位紀元前288年―232年頃)は、統一インドの最後の敵であった東南地方の「カリンガ国」を征服し五大天竺国を統一した。最後の戦争に勝利してインド統一を達成したけれども、その戦争は凄惨な戦だったので、アショーカ王は侵略戦争で無益な殺生をした事を深く後悔した。そして、戦いによる勝利は真の勝利ではなくて、仏教の法(道徳・真理)による勝利こそ最上の勝利であると確信した。その結果、仏教の教えを民衆の間に広める事を顕彰した。国中で全ての宗教を手厚く扱った。王自身は仏教を信仰していたので、特に、統一インド国内で大量の石窟を開鑿し、石柱を建てて仏教の法と教えを書いた王の詔勅を宣布したり、摩崖に刻ませたりした。また、仏塔も建造した。アショーカ王の時期は、仏教芸術史上においては、重要な位置を占める。この時期から仏像が出現する迄の約一世紀の間を、美術史では「無像時代(Aniconic Period)」と呼ぶからである(注3)。
ギリシャの歴史家であるメガステネス(Megasthenes)が書き表した書籍には、「マウルヤ王朝期の首都のパータリブトラを流れる河沿いには、延々と九マイルに亘って合計570座もの仏塔が建立されている。」との記載がある。アショーカ王が支配し始める前から、既に八座の卒塔婆の仏塔が建立されており、仏陀の舎利(遺骨)と遺物も卒塔婆この河沿いに建てられた仏塔に収められている。」の記載がある。別の書籍の『眦奈耶(シナヤ)雑事巻 三十九』の記載によればアショーカ王の仏教芸術方面における主な推進活動は、次の通りである: 「アショーカ王は、八座の仏塔を開いて納めてある舎利を取り出して、大切に供養した。アショーカ王は八万四千の国を統治していたので、八万四千の諸国に一国につき『一寺一仏塔』を建てさせて、仏教の教えを民衆に流布し、布教する様に奨励した。これらの仏塔は威厳と徳に満ちており、当時のインドの社会では荘厳であった。」
釈迦仏が涅槃してからアショーカ王の時代に至る迄、既に一百余年の歳月が流れていたが、仏教を興隆させる為にアショーカ王は司祭事を司る複数の長老達のみならず、自身の息子の皇太子まで各地に派遣して仏法の布教活動に参加させた。そして、仏陀の生誕地のルンビニーの卒塔婆に収納されていた仏陀の舎利や遺品類を収集させて八万四千分に分けて、各国に仏陀の聖跡を記念する為に八万四千寺に仏塔を建造して仏陀の舎利を奉納し丁寧に仏陀の舎利を供養したのであった。統一国家を代表する国王を初め、皇太子や司祭を司る長老や貴族達が仏陀に対する思慕と信仰を表示したりして善政を推進したので、民衆も心から国家の平和と福徳が保たれて、統一国家とそれぞれの社会と全民衆を守ってくれるようにと祈求したのであった。
3. 仏塔が長期に亘り仏塔遺跡を保存・管理し護って来た意義について
アショーカ王時代に仏教徒が仏陀の涅槃直前の遺訓――「自分の涅槃後に自分の代わりに仏像を造像して拝む様な『像崇拝主義』に固執すべきではなく、精神的な面を重要視して、一途に仏教の道を進んで『悟を開く事』が大事だ」――を当初は守っていて、仏塔や寺院を積極的に建造せず仏像等も全然制作しなかった。芸術的な表現活動という観点から考察すると、「無仏像時代期」でも段々と石窟や仏塔等を建造し始めて、それらの限られた建造物の表面に彫刻で釈迦仏に関わる「本生譚」の故事や仏教の教えに関係がある様々な模様を象徴的に用いて、精巧で緻密な浮彫りの装飾模様を施し始めたのが仏教芸術の芽生えかも知れない。特に卒塔婆仏塔の外側を欄楯(らんじゅん=高い欄干や建物の外側を囲む「玉垣」等、を指す)と呼ばれる「玉垣」とか、鳥居形の三本の横梁を掛けた門の柱や横梁には、釈迦の「本生譚」故事(Jataka)や様々な植物や獣類等を、芸術的な美的感覚溢れる精緻な浮彫り彫刻で施した。弟子達や仏教信徒達は、仏陀の教えや仏陀に関わる「本生譚」の故事や模様のデザインを隠喩で象徴的に浮彫彫刻手法を用いる事によって、自分達の仏陀への思慕と仏教の「慈悲、平等、殺生をせず・・」等の心温まる教えを胸に抱いてそれらの故事や仏教の教えを象徴している模様等を、玉垣や東西南北の四隅に置かれた四つの門柱と三本の横梁の表面に浮彫りで表現したのであった。このような仏塔形式と彫刻による表現手段を用いて、仏陀の弟子達や仏教信徒達は、当時のインドの仏教芸術を人類に残してくれたのである。それ等の現存する仏教芸術の「図象イメージ」を、象徴的であれ、具体的な「図形とデザイン」を用いて、仏陀の「本生譚」の故事や模様を彫刻で装飾模様として具現化したのは、当時の仏教信徒達が理解していた仏教の教義を通して見た「宇宙」をどのように把握していたかを具体的に表現しているのである。勿論、「生命と仏教」の教義の内容に対する仏教信徒達の観点を、「図形が表すイメージ」として把握し、具体的な「図形とデザイン」として具現化した事も明白である。

また、古代早期の時期に、仏陀の弟子達が卒塔婆を造った意義とは、当時の斎祀方法では、遺体を荼毘に付した後に、死者の舎利や灰を拾い集めて掘った墳墓の中に収めてから、その上に覆鉢型に盛り土を低く載せて、その上に卒塔婆を立てた。それが当時の葬式の風習習慣だったので、人々がその風習に依拠した行為をした事も卒塔婆を造った原因の一つであったであろう。別の面から考えると、卒塔婆仏塔を建造してその仏塔の建物の周囲を玉垣で囲んで、仏塔の敷地の東西南北の四隅には三本の横梁を掛けた鳥居式の門を建造したが、仏塔の周囲を囲っている玉垣や石材の門や横梁の表面には精緻な浮彫りを丹念に施した。そして、浮彫りの題材の対象は、仏陀の本生譚の故事やその他の自然界の菩提樹や蓮華の植物類や動物等の生物や輪宝等の仏教の教えを象徴する「輪宝」等の物品類や「足」の様に「この世に生きている生命」を象徴する模様等を浮彫りにして、仏教の教えを「図形と浮彫りの手法」で表現して「造形物」として具現化した事は、単に遺体の舎利を仏塔に納めて死者の御霊を供養するという世俗的な風習の域を既に超越しているのである。仏塔に残されたこれらの浮彫りや装飾模様は、グプタ期以前の仏教芸術の粋を見せており、美術史上、非常に高い価値があると認められる。
関連して、「卒塔婆の造形は『卵の形』を模倣したものなので、別称アンダ「anda」とも呼ばれる。内部に収められている舎利は、「生命の源」である。一説では、仏塔の形は「僧侶が手に持って托鉢する鉢」を模倣した形だとも言われており、円塚の基座は、「御仏が坐ると下に垂れ下がる袈裟のスタイル」を表しているとも指摘されている。
されども、最も普遍的な観点はやはり「古代墓葬形式から発展して来た葬式のスタイルであり、御仏の涅槃を象徴している」との指摘であろう。その為、当時の仏塔を建造して舎利を長い歳月の間保護する意義に基づいて考えれば、仏塔とは、別の一方法によって仏陀を象徴しているという意義があり、仏塔に敬意を払う事は、即ち、仏陀に敬意を払う事なのであると指摘出来よう。
仏塔の形式について
早期の卒塔婆は墓葬の形式から来たので、古代の斎祀の名残を僅かに漂わせている事が分かったが、その形式は比較的簡単である。紀元前二世紀の遺跡の中(サンチーやバルフト)でも早期の卒塔婆仏塔の基本的な形式の仏塔を見学できる。例えば、仏塔の主要な部分を形成する半円形の覆鉢型の塔の建物や、四角の平台や、塔の屋根の頂上にある低い相論部等の小さい建造物等と、それらの建造物がどのように配置されて卒塔婆仏塔を形成しているか、等を観測できる。現在、インド中部のボーパル(Bhopal)の古代都市のサンチー(Sanchi)には、三座の大卒塔婆仏塔が残存しており、豊富な古代の仏教芸術を代表する石柱や納骨壺兼位牌安置堂や僧院等の建物が残っている。考古学者は個々の仏教芸術の創始年代は、マウルヤ王朝が紀元前317年頃に建国された後、アショーカ王時代になってから始まっており、シュンガ王(Shunga)を経て、アンドラ(Andhra)王に至る迄、継続的に修理や建築物が追加されたり新たに建造されたりして来た事を発見した。
サンチー遺跡の三座の卒塔婆仏塔の中でも、特に精緻なのは第一号仏塔である。その卒塔婆仏塔の直径は36.6mで、高さは16.5m、欄楯(らんじゅん=高い欄干や外を囲む玉垣等を指す)は、高さが3mもある。紀元前二世紀中期頃のシュンガ王時代に建物は改築された。その時に「古甎塔(こせんとう)」の台座等を高くしたり、南口の両側には階段を増築したりした。半円形の覆鉢型の塔の全部も頂部の「建物の蓋」の形で建造されている円形建造物の部分にも装飾された石板等で覆われてはいないが、大仏塔のある箇所では早期の建築資材であった赤石タイルが露出している部分もある。仏塔の建物の「蓋」の様な円い頂きの周囲は、玉石で四角い形に囲ってある。この玉垣と共に、建物の「蓋」の様な円い頂き部の小さい建造物は、平頭(harmika)と呼ばれる塔の頂部分を成す「蓋と相輪部」である。平頭の中央には十三層の華蓋(chatta=相輪部)が頂部に嵌め込んである。この部分が後に仏塔の尖塔部分の相輪の原型になっている。
仏塔の敷地はほぼ正方形で、仏塔の周囲は欄楯玉垣で正方形を形作る様に囲まれており、東西南北を表す四隅には、横梁が三本かけてある鳥居形の大きな門が計四つ建てられている。これらの四つの門は高さ十メートルある石材の角柱である。横梁も石材ではあるが角柱ではなく、平たくて厚みが有る長い長方形で、梁として横向きに門の両側の石材の角柱に嵌め込まれており、梁の先端は両門柱の外に飛び出ている形状を示す。横梁の表面には浮彫りで釈迦の「本生譚」の故事や仏歴が彫刻してあり、門柱の全ての表面にも様々な植物や獣類の模様が浮彫りされている。施されている浮彫彫刻は美しくて精緻で精美で繊細であり、インドにおける仏教の象徴的な模様に対する美的感覚及びインドの風格が良く表現されている。模様の構図もデザインもびっしりと非常に精緻で複雑な構図で、それが叙述性と装飾性に富んでいながらも仏教への清純で一途な心情に満ち満ちており、出来栄えは高度で芸術的な感覚で見る者に感動を与える。模様の中には仏陀の仏像やその形象のイメージはまだ出現していないが、当時の仏教芸術のレベルの高さと成就感が顕著に表現されている。
第三号の仏塔は、第一号の仏塔よりも小さい。その仏塔が建ててある丘から一個の石造りの棺箱が出土して、その棺箱の蓋にはアショーカ王時期の仏陀の十名の高僧の名前が刻まれていた。第二号の仏塔の大きさは第三号の仏塔とほぼ同じ大きさでだが、頂部には相輪部分が建造されておらず、平頭部分には、二個の舎利缶が収められている。舎利缶には「舎利仏摩訶目犍連(マカムケンレンの舎利(遺骨)」と刻んである。缶上の装飾も比較的簡単である。『眦奈耶(シナヤ)雑事』に依れば、次の通りである。
「生前、この仏(ほとけ=仏教社会で「死者」を別称する名詞)は、石材タイルを使えば、二重構造の基台が築けるので、仏塔の形は安覆鉢型で建築して、その中に私の遺体を安置して下さい。仏塔の頂上の平頭部分の高さは随意に高低を変更しても構わないが、仏塔の全体の高さは十二尺で、正方形の台の一辺の長さは二十三尺で建造して下さい。建物の屋根の上の蓋に立てる輪竿の直径の大きさに合わせて、嵌める相論の大きさを決めてから、それ等を重ねて嵌めて下さい。相輪を重ねる数は十数個を一度に重ねて嵌めこむか、或いは、一、二、三、四、と相互の相輪の上下の間に間隔を置いて嵌めこむかでも、とに角、相輪は全部で十三個重ねて嵌め込んで下さい。遺品を入れる「寶瓶」も安置出来るように建造して下さいよ。」と注文してから、独り言を呟いた。「単に自分の遺骨を納めるというだけで、何故、この様な大袈裟な卒塔婆仏塔を建造しなければならないのか?材料費が十分ないと困る」と思い、白仏師に会いに行ってその心配事を打ち明けたら、白仏師が長者に言った。「もし、卒塔婆を建造するのなら、材料が十分に確保出来るかを先に考えるべきで、もし、材料不足なら「寶瓶」を安置する必要は無いと自分で自然に気が付く筈ですよ。仏教僧侶の阿羅漢達も、死後、仏塔の頂部の蓋に輪竿を立てて、相輪を二個、三個以下でもいいから輪竿に通して嵌め込みたいと願ってはいても、最終的には自分の身分に等しい数の相輪を一個か二個嵌め込むだけですよ。凡人や善人は仏塔の平頭の蓋に輪竿も付けずに建造しますよ。蓋に輪竿も立てないし輪竿に相輪を一個も嵌めこまないで質素に納骨の儀をすませるのです。世尊(仏陀)がそのように『形式的な事をするのは避けよ』と遺訓されたからです。」と言った。
これは経典中に出て来る説話であり、仏塔の明確な規範が述べてある。例えば、仏塔の頭部の平頭を成す蓋の部分に輪竿を立てて、その竿に相輪を一個から十三個以下まで嵌め込む事が分かる。仏塔は十三塔の高さ以下で建造するのが基本的な考えで、高僧の阿羅漢は四個の相輪を嵌め込んで、幹部級の阿羅漢なら三個、初心者の阿羅漢なら一個だけ相輪を嵌め込むのが許されたが、凡夫や善人は卒塔婆の平頭に輪竿を建てず相輪も嵌めこまない。そして、「『寶瓶』を安置する必要は無い」の部分に関する説明は、もし、聖人が仏塔を建造する時に縁があれば、相輪の数は十三湖迄重ねて嵌めこむ事が可能だけれども、「寶瓶」を安置させない。
「寶瓶」について、『大唐西域記』の中で、玄奘法師が当時インドの「菩提迦耶(ボデイカヤ)」で大菩提寺の寺院の上の相輪を見た時に、相輪が「菴摩羅果(アンマラカ)」と呼ぶ果物に似ていると感じたと言う。この記載からインドでは早期から卒塔婆を造る風習があった事が分かる。仏教の経典に記載されている様な何個の相輪を卒塔婆の頂部の平頭部分の輪竿に嵌め込むかに関しての制限はそれ程厳しくはなかった可能性もあるし、「寶瓶」も墓の中に常に安置しなかったかも知れまい。但し、大乗仏法が興隆し始めてから、各地で仏塔が建立される時の規則や規範は、経典によって定められていたのは確かであった。仏塔を建造する目的も、以前の様にただ死者の舎利を土中に埋めて供養するというだけではなくなった。例えば、記録によれば、並斯匿(バシル)王は、卒塔婆仏塔から仏陀の爪と頭髪を奪い去って自ら仏塔を建立したと言い伝えられている。又、『六度集経:儒童受決経』には、「長者が子の賢乾に、御仏は自分が他界する前に柴を刈って、自分が他界した後で自分の遺骨を入れる墓の場所を予め定めておいて、その墓の場所が分かる様にと柴の枝をその場所に突刺して置いて分かり易くしておかれたそうだ。全く仏陀は何事にも用意周到で、きちんと記録や標を残しておいたから、後に続くものは果報者だと感心させられた、と語ったのであった。」と言う記載がある(注2)。
大乗仏法が興隆してから、人々は「三寶」を御仏への供養に用いれば、福徳が訪れて食糧を含む物資を積み貯めて増やす方法に最適だと思って、このような小型の卒塔婆なら葬式の費用を節約できるので、一般民衆にとっては基本的な形式の模範であると認識していた。それにも拘らず、同時に早期の大卒塔婆仏塔の様式も維持して来た。特に、ガンダーラ地域のLoriyan-Tangai地方で出土した一座の小型卒塔婆には、五重の相輪が重ねてあり、塔の頂きの「平頭」部分の梯子は斜めに造られており、覆鉢の下には三重の基座が設えてある。最も下方の正方形の低座は、基本的な仏塔形式を踏まえている外、ギリシャとペルシャの芸術的な風格の影響を色濃く受けている。考古学者による予測によれば、この小型の仏塔が建立された年代は約紀元三世紀頃であり、仏塔はクシャン王朝が建造した可能性が高いと言う。当時、仏像の彫像技術は既に相当高いレベルにまで向上していたので、仏塔の基台は仏陀の形象を表現しており、基座上の図紋のデザインと台座の下にある正方形の底座から判断するとギリシャ建築様式である事が分かるので、当時のガンダーラ地域とギリシャの密接な関係が良く分かるのである。
これ以後、仏塔の形式の変化は歳月が流れるに従ってより多くなって行った。仏教美術の観点から見れば、インド地区は紀元前から紀元十世紀までの間の仏塔形式は、早期の仏塔形式をそのまま踏襲して保持してきている。密教の発展以後、歴史的には早期である四世紀に仏法がインドから中国に伝来して来た当初から、仏塔と中国国内の建築様式とは無理なく自然に結合して、仏塔の仏教建築分野においては、中国において更に豊かな各種の仏塔建築形式を生み出したのであった。(続く)
(注1):梵語(stupa)の音訳で、別に、「卒塔婆」、「窣堵波」、「藪斗婆」等と書く。
バリ語では(thupa)。略して、「塔婆」、「兜婆」、「浮図」、「塔」等がある。古代インドでは、墓の原型が饅頭に似ている事から、「饅頭の形をした墓」の意味の原語を用いる。釈迦の滅後、「卒塔婆」とは、墳墓の意味だけでなく、既に「記念物」の性質を表す。マウルヤ(孔雀)王朝において、煉瓦を用いた仏塔の建築様式で設計した仏塔が数多く建築されたので、それ以後、仏塔を中心にした「新仏教運動」が起こった。
中国や日本では、塔とは金堂と並ぶ程重要な仏教建築物である。仏舎利を納めるのみならず、寺院を象徴する建物物である。三重塔とか五重塔とかの最上部には、相輪部分があるが、それはインドの風格を保持しているからである。釈迦法の内の「仏の成道」に関する説明部分の補足としては、二人の商人が世尊が涅槃後に、爪と髪を取得した後で仏塔を建造したのが仏塔建立が流行する始まりを作った出発点であったのである。バシル王は、生前佛陀に会った時に、仏陀に乞い願って長い頭髪を頂いてから、後に仏塔を建立して塔の中に頭髪を納めたので、実際は、これが仏塔建立の最初の塔であった。仏陀の滅後、十座もの大塔が建立されて、アショーカ王時期には八万四千座の舎利塔が建立された。これらの全ても仏塔である。
(注2):種姓のバーナ(Varna)時代は早期インド社会の時代で、アーリヤ(Aryans)人がアーリヤ文化の下で建設した階級制社会であった。その階級はバラモン(brahmans)、クシャトリア(kshatriyas)、ヴァイシア(vaishayas)、シュードラ(shudras)に分別されていた。それぞれの階級は高い階級から、僧侶を代表にした司祭を司る人、帝王や王族等の貴族、工商人、奴隷であった。
(注3):無像時代(Aniconic Period)について、仏教美術史においては、一般的には、世紀後一世紀の時期の、未だ仏像が出現してなかった期間を指すとの定説がある。この時期の仏教芸術は、仏陀の「本生譚」の故事の内容や仏教の教え等を、象徴的な隠喩法を用いて像形として「浮彫り」手法で具現化する制作方法を用いたので、仏陀と仏教の教えを形象的なイメージで捉えてと造像した仏像という具現化された像形としては直接出現しなかった。例えば、隠喩表現に基づけば、「法論」戸は仏教の教えの説法を表しており、また、「足印」とは、人々がこの世に住んでいる命を隠喩的に表している。同じように、菩提樹は「仏の道を悟る事」を、卒塔婆は「涅槃」の意味を表しているのである。
