仏教における造像碑の図像と象徴につい
仏教における造像碑の図像と象徴につい
文/見迅法師
1. 前書き
造像碑像類上に刻まれた造像記文や銘文の文字の種類と内容は共に重要である。其の視点に従えば、「図像」と「造像記」は中国文化の体系においては、人々に「象」と「文」の概念を呼び起こさせる。「象」とは、象徴的な符号の系統に属しており、人間の美的感覚を「図像」で伝達する表現方式と関わっている。造像制作者は、己の思惟層に属する審美的な感覚を通して象徴的な「象(イメージ)」として受けた感覚と内容を「図像」として捉えて把握し、更にその審美感を「造像碑」という具体物として具体化させて表現する。その為、具体物である造像碑と「図像」概念が融合されて具体化されている「造像碑」は、仏教観念と経典儀軌が融合した文化と芸術を象徴していると見做す事が出来る。
2. 造像碑による図像表現について
(1)「三層式」図像の構造について造像碑の図像は常に三層式の図像構造を成しており、各層はすなわち自然界の「天、人、地」三者の相互関係を「三段層式構造で表現する。上層は極楽浄土にある「天の宮殿」のイメージを表す。その層には、兜率天(そとつてん)が交脚座位の弥勒菩薩と説法を交わしている場面のイメージを表す為、これ等の二像を組合せて配置するか、或いは「二仏並坐」像を配置するか、或いは、飛天と伎楽天を組合せて配置する。真中の層は、通常、箱型「龕式のずし」の一具全体の「主の部分」を成すので、この層には、通常、御仏一体と脇侍像の組合せで配置する。これは、人間が成仏して釈迦牟尼と説法を談じている場面のイメージを描いている図を表す。下の層には、一対の護法獅子の二と博山爐と供養者の像一体を配置する。
当館蔵の唐代王玄道母丁等造仏碑像(造像碑の正面図)
中台山博物館の館蔵する唐咸亨二年(671年)に王玄道母丁等20人が造像した造仏碑は、碑の正面部の第一層目の上層の碑首には、二匹の角無しの「みずち」竜と三種の楽器を手に持った三人の童子の像三体と伎楽と飛天の二体が、配置して彫り刻んであり、「天の宮殿」のイメージを表している。第二層目は、箱型「龕式のずし」一具全体の「主の部分」を表す層である為、御仏一体の両側に、脇侍である弟子二と菩薩二とが左右に一体ずつ計四体の像を組合せて配置してある。主尊の御仏は蓮華台上に座しており、その蓮華台の下から蓮の茎体一本が左右に長く伸びている。そして、長く伸びている蓮の茎体は、更に別々の五本の短い茎を分かれて出しており、これらの短い蓮の茎がそれぞれの尊仏像四体が立っている台を下から支えているのが見える。
従って、この造像碑の「主の部分」を成す箱型「龕式のずし」の第二層目には、「龕式のずし」一具に付き、首像の釈迦仏像を含めて尊仏像が総合計五体配置してあるのが分かる。
この「主の部分を成す層」の下には第三層目が設えてあり、その中央部には一対の獅子二頭が口に前述の「蓮の茎体」を加えて上段の尊仏像五体を護っている様子が彫り刻まれている。それらの一対の獅子の左右には、金剛力士が一体ずつ配置されて計二体の力士が左右に立って上段に配置されている尊仏像五体を護っている。この第三層目の一対の獅子二頭の下には小さい空間の「室」が彫られており、中に祈っている法師が座しているのが認められる。更に、箱型「龕式のずし」の最下段の第四層目には、供養者の像が彫られてある。その為、第二層目の尊仏像五体と、第三層目の護法する一対の獅子計二頭と力士二体と法師像一体によって、上層に配置されている尊仏像五体を護っているイメージを表す組み合わせで配置されているのが認められる。
この箱型「龕式のずし」の最下層には、供養者の像のイメージも彫り刻まれている点に基づいて総合的に判断すれば、複数の供養者達が、如何に仏教を深く信心しており、死者の御霊が無事成仏して天へと昇天した後に、「天の宮殿」に入れる様にとの強い願いの念を持って、その祈願を尊仏像五体に慎んで託している事であるか、複数の供養者達の祈願の深さと強さのイメージを、これらの複数の造像物を効果的に配置する事によって、非常に力強く深く表現している点が認められよう。
この図像は「三層式構造」を示していて、中国古来の「宇宙を形成している天、地、人」を一つに組合せた「三体一合論」に基づいた空間概念と、「前世、今生、来世」という、三つの「異なる世」の時間的な連結概念という、想像上のイメージを結合させて表現している。この造像碑によって表現される宇宙の空間概念と不断な連続体である時間の連結状概念とが結び合った「結合構造」は、中夏両民族の世界観を顕著に表しているものと指摘出来よう。
(2)「二仏並坐像」の図像の表す内包的な意味について
[仏教的な意味と意義について]
この「釈迦・多寶二仏並坐像」の図像のイメージは、≪法華経≫に収録され引用されている「見寶塔品」の故事を反映している。多寶仏は滅度する前から、自分が滅度して成仏した後、それを証明する為に塔を建立すると宣言していた通りに、滅度し成仏した後に、「多寶塔」を建立した。釈迦仏が「多寶塔」を訪れると、既に成仏している多寶仏は虚空から釈迦仏を塔の中に招き入れたので、釈迦仏と多寶仏の二仏が「多寶塔」の床の上に並んで座って≪法華経≫の説法を交わし合っている情景のイメージを、「二仏並坐像」は反映しているのである。
多寶仏は、又、滅度前に、いつも釈迦仏にも外の弟子達にも次の様に言っていた。「もし、私が滅度して成仏したら、それを証明する為に、また、≪法華経≫の教えに従うが故に、当然、国土の隅々に至るまで心を込めて塔や廟を各地にあまねく建立して見せます」という大きな願いを誓っていた。それで、釈迦仏は、弟子たちに≪法華経≫を講義する度に、多寶仏がよく「私は滅度した後、御仏の教えの通りに懸命に塔や廟を尊んで心を込めて建てるので、多寶塔や廟は水が自然に湧き出るが如く各地に出現する筈ですよ」と言った事、加えて、又、多寶仏は「滅後に『多寶塔』を建立しても、私は尊師の御仏の説法なさる『法華経』の教えを聴きたいが為に、仏の皆様の前にこの身を現して、『かの仏(滅度して成仏した『多寶仏』自身を指す)は、仏である皆様全ての分身なのです』と告白したい思いにかられると思うのですよ。十方世界の説法に拠ると、ある一個所に気力を集中させれば、私の身からでも「耳」が出現して皆様の「耳」と成れば、皆様の誰でもが(成仏して滅度した)私の声が(虚空から)聞こえる筈との教えがあるのですから」とも言った事等も思い出していた。それで、釈迦仏が弟子達に『法華経』を講義している時には、いつもこの箇所に来ると、四方から弟子が(成仏した多寶仏の声を聞こうと願って)釈迦仏の周りに寄り集まって来るので、釈迦仏が右指で多寶仏が滅後に建立した多寶塔の戸を開けると、多寶仏は虚空から釈迦仏に「どうか塔の中にお入りになって、私と一緒に並んでお座り下さい」と招き入れた。結果、二仏は多寶塔の中に並んで座って『法華経』に関する説法を交し合ったのだった。釈迦仏の『法華経』の講義の会に参加していた弟子達の全てが、「釈迦仏は神通力で虚空に昇り、多寶仏が釈迦仏に『どうぞ塔の中にお入りになって、私と並んでお座り下さい』とお願いして塔の中へ招き入れる言葉を聞く力を備えておいでになるから、多寶仏が虚空から釈迦仏様を多寶の中へ招き入れる言葉を聞く事が出来たので、二仏は塔の中に並んでお座りになり『法華経』の説法を交し合う事が出来たのだと、皆、感服した事であるのです」という故事にちなんでいる。
[『法華経』に納められている「見寶塔品」故事の時代的背景について]
この故事の時代背景は北朝時代である。その時代における仏教の教えに基づいて造像する願いと実際の行為を倫理化する為には、当時の時代の政治的背景を見過ごす事は出来ないであろう。当時の民間の人々の間では、「帝王とは、すなわち、今世の如来である」の観念が盛んに流布されて、「皇帝を拝む事は、すなわち、御仏を拝む事と等しい行為」であると信じられていた。
中国の社会は、「礼」の観念を基に築かれている「礼」体制社会であり、又、父母に忠孝を尽くす「孝」の概念とは、「礼」制社会に生きる人々の「人間は何の為に生きるのか」という疑問に答えて人々に生きる目的を与える中心的な「要を成す概念」である。北魏王朝の献文帝と孝文帝の「二人の皇帝による支配体制」とは、先帝が他界した時、皇太子の献文帝は11歳だったので先帝の妻の馮皇太后が摂政の座に着いた。献文帝は18歳で皇帝の地位を退位し、皇太子の孝文帝が5歳で皇帝に即位後も引き続き馮皇太后が摂政として政治的な実権を奮っていた。献文帝が23歳で他界したのでそれ迄の5年間は二人の皇帝がいた上に、摂政の馮皇太后が政治を支配していた。孝文帝は長い歳月馮皇太后に孝養を尽くし、馮皇太后は他界する迄摂政の座に着いたままで事実上はずっと政治上の権利を奮っていたという、北魏王朝の在り方が続いた。
北朝時代に制作された縦長の箱型「龕式のずし」内に、「釈迦仏と多寶仏の二体」が一緒に組合されて並び座して配置されているのは、北朝時代に発生した北魏王朝における「二人の『皇帝』」、或いは、「一人の皇帝と一人の摂政」、が、並び座して国家を支配していた現実的な状況を象徴していたと言われている。また、弥勒未来仏の菩薩の身分は、或いは、幼年の皇子を象徴していると見做せるのも、当時の北魏の太和年間に造像された時代的な背景を、反映していると言えるであろう。
当館蔵の「北魏時代の石造り四面像」の部分図
(3)現実の生活の反映としての造像仏碑
民間人が造像しようとする目的は支配者側の王朝の意図とは異なっており、仏教の教えをなるべく簡単な方法で流布する事にあった。その為、中国では仏教が伝来した早期から造像制作の実体は民族化や世俗化や人間の現実化、が大きな特徴を示した。当館の館蔵する「北魏時代石造り四面像」において、「二仏並坐像」以外にも、大きな象や音楽を演奏する楽隊や様々な曲芸技を演じる曲芸人や二匹の龍による珠遊びの「文龍紋」等の図像が彫刻されている。これ等の図像は当時の民衆の現実の生活を反映している。「文龍紋」の図像は昔の人々の「邪悪な災難を避け福を得られる様に祈願を象徴するので、子孫の繁栄と吉祥が眷属に来る様にの願いと期待の深さを表している。
3. 造像碑の図像と図像が象徴している「意味や事象」について
造像碑の図像がイメージする物事や事象には、まるで自然の力が人々を文化や精神的な活動へと駆り立てる原動力へと変化させる様な、非常に強大な宗教の力が隠されている。例えば、当館の館蔵している西魏の大統551年に制作された「王俟尼造像の仏碑像」の図像には、龍、象、獅子等の霊獣の造型を造像表現している物を多数含む。縦長の箱型「龕式のずし」の最頂部には、「首をもたげて顔を合わせあい、身は絡み合っている龍」模様が彫刻されている。「龕式のずし」の第一層には、「ずし」一具全体の「主要な部分」を表示する「釈迦仏の説法図」が配置してあり、その下の層には「『寶輦』の中の升に坐って説法をしている釈迦如来坐像を背に載せている象を、前で獅子二匹が引っ張っている光景」をイメージした図像を配置している。
(1)「光」が象徴する「意味や事象」について
仏教の図像における「光」が象徴するイメージは、「智慧と光明」を表しており、仏像の頭と身から輝きを放つ火焔の光は、御仏の力と威儀と威厳を表現する。その為、「火焔紋」は智慧の光を象徴している。「火焔三昧」という語句の意味は、『仏説話の長阿含経・巻十』に納められている故事によると、「仏陀が摩竭(まけつ)国の北部にある毘陀山中に到った時に、山中に住む毒龍を人々の為に降伏させて退治しようと意図して、全智力を集中させて一心不乱に念じた結果、自身の体から出火し始めて火焔を放った。それでも尊い御仏は火焔に包まれながらも、一心不乱に集中して毒龍退治を念じていたので、毘陀山全体が火焔に包まれて火焔の熱で真っ赤になったのであった」という故事の表す意味を象徴している。この故事に依拠して、数多くの羅漢は、入滅する時には火焔に巻かれても火を熱いと感じない程一心不乱に集中して成仏を念じつつ経文を唱えたので、その身を灰燼に帰す事が出来たのである。
(2)「獅子」が象徴する「意味や事象」について
獅子とは、梵語では“simba”と書く。漢字では「獅」の漢字を用いてこの野獣を書き表す。その意味は「獅子」とは、「百獣の指導者たる野獣の王」ぼ意味を表すが、獅子は獣である故、「師」に「犬」部首を書き加えて「獅」の字で表して、人間の「師」と区別する。古代の中国には本来獅子は存在していなかった。張騫通史に依れば、獅子は、中国が西域地域と交流するようになった後で、西域から伝来したとの事である。
『爾雅・釋獣第十八』に次の記載がある。「獅子とは、『山猫の様な、別名狻麑(さんげい)』の事で、転じて『唐獅子』を指す。虎や豹を食す。」また、東晉の郭璞の注釈に依れば、「『獅子』とは、すなわち『師子』であるなり、西域の出身」と説明する。狻麑は、別名「狻猊(さんげい)」とも呼ばれ、龍から生まれ出た九児の内の一児だという伝説がある動物である。外貌は「獅」の如く、(香のある)煙を好んでゆったりと座っており、その形相はまるで香炉から出て来る好い香りがする煙を吸い込んでうっとりとしている顔付きをしている。獅子は仏教に付き添う形で中国に伝来して来た由縁もあったので、中国の人々は「獅子とは、高貴で尊厳を表す霊獣だ」と受け取ったのであった。それで、箱型「龕式のずし」の中の仏が座っている位置の下に、「博山爐に対面している一対の獅子二像」が配置してあるのは、一対の獅子が二頭で御仏を護っているイメージを象徴している。
では、「獅子の座」とはどんな意味なのであろうか?『大智度論: 巻七』に依ると、「御仏は人間を導く師であり導師であり、御仏がお座りになる所は、床であれ、地面であれ、皆、『獅子の座』の名で呼べる。例えば、この世で国王がお座りになられる所は、皆、『師子の座』と呼べるのと同じである。・・・獅子は四足の獣の中でも、群れずに一頭だけで行動しても何も恐れず、全て一切を自力で処理する能力を備えている。獅子と同じ様に、御仏も仏の説く九十六種類もの修行の道を独りで歩み、どんな苦難に出遭っても、恐れずに独り自力で何事も対処する能力と精神力の強さを備えてどんな事でも克服して行かれるから、『特別の能力が備わった名士であり師である』と認められるのである。」と説明している。
また、『大智度論: 巻二十五』には、御仏曰く、「私には充分な力があり、どこにいても何があっても恐れる事はない」という説話が記載されている。これこそが、「衆人の中にあっても、師とは恐れずに吼える」の意味であり、それは民衆に向かって御仏の教えを説法する事は、何事も御仏の教えに従ってさえいれば、獅子が大声で吼えて全ての猛獣を服従させる様に、我々が世界を震撼させる程の大声で御仏の教えを説法しても恐れずに、自信を持って教えを流布すればいい」という意味を表している。
(3)「龍と象」象徴する「意味や事象」について
龍とは、中華民族と中国文化の象徴であり、華夏両国の民は自分達を等しく「龍のお使いだ」と自称する。「文字の視点から見た龍の象徴する意味や事象」について、仏教に関する書籍・雑誌・文学書等に登場する「龍の概念と龍に関する人々の考え方や捉え方等を含んだ文化面」について考察して見たい。例えば、当館蔵の造像碑像の中にも、羅漢が龍に乗って天から降りてくる模様が彫り刻んである造像碑がある。その像に加えて、縦長の箱型「龕式のずし」の最も頂上部にある扁平状の空間に、「角無しの『みずち龍』が口に蓮華の花を加えて、菩薩像に対して飛翔する龍に吉兆を祝って花むけの蓮華の花を送って欲しいと託している「翔龍嘉蓮」の願いを込めた模様が彫刻してある造像碑や、五本の指の爪を持っている「龍天子」が、龍から使わされた真実の「龍帝王」のお使いの筈、等々の、民間の人々の「龍」に対して抱いている「多種多様の考え方や受け止め方やイメージ」が表されている。
仏教における「『龍』が表示する概念」とは、中国の伝統的な文化における「『龍』の概念」とは違って、所謂、御仏が教えを伝えた護法の神である「天龍八部」中の一匹に過ぎない。梵語の「那伽(“naga”)」は、「龍」、「象」、「無罪」、「来ない」等の複数の意味を表す。仏教用語では、御仏か、或いは、阿羅漢の中でも、猛勇に修行して最大の力量を示す修行者を、「摩訶(梵語では“maha”)那伽=非常に秀れている龍」と比喩的表現を用いて呼称する。『大智度論: 巻三』には、「摩訶」とは「大いに優れている」、「非常に優れている」等の意味を表す。その外、梵語では、「那」は「否」の意味を、「伽」は「罪」の意味を、それぞれ表すので、複数の阿羅漢は、「那伽」が何を意味するかを断定するのに苦慮して、結局、「不罪=罪が無い」のであるから、「無罪」の意味を表すと決めた。繰り返すと、仏教においては「那伽」とは「龍」か、或いは「象」を指す。言い換えれば、五千人もの無数の阿羅漢の中でも、特に非常に優れていて最大の力量の持主だと認められる阿羅漢を「非常に優れた龍」、或いは「大いに優れた象」の様だと呼ぶ。「非常に優れた力量を示す阿羅漢」とは、「まるで水中を泳いで行く力量大なる龍」の様であり、或いは、「まるで陸を行く力量大なる象」の様だと、龍や象に喩えてそう呼称するのであろうと、記載では説明しているのである。
4. 結び
造像碑は仏教芸術であり、経典と儀軌とがその基本的規範を成している。どの尊仏像を用いて敬うとしても、例えば、造像碑の中の最も普遍な「御仏一体菩薩二体」の「三尊形式」で造像し一緒に配置したとしても、御仏は「本体」を表す。その「本体」の意味は、御仏像一体のみを用いて、造像碑一具の「主」を成すのである。菩薩像は、御仏の脇侍役として添えて用いる。それ故、菩薩二体だけを用いて「一具の造像碑」を制作するなら、二体の菩薩像の内、一体の菩薩像は「智慧」の意味を表し、もう一体の菩薩像は「実践」の意味を表すのである。
その為、「三尊形式」で造像碑を制作する事が、仏教における造像を制作する原型の意象を表す事になる。原型(archetype)とは、造像する時の「古代造型」のタイプの一種であり、以前の人々が現在の世に存在する我々子孫に最も原始的な形相の外貌を呈する造像類を遺留品として残してくれた価値有る芸術作品群である。これらの原始的な形相を呈する造像碑像は故人が切に祈願した様に、「今世での社会の安寧と幸せな人生を、死後には成仏して天にある『天の宮殿』に入る事が出来る様に」と切に祈願して造像碑を制作した供養者の心情と祈願によって、造像碑像は普遍的な味わいと深みを持っており、古人と我々現代人の間でも共通な祈願の心情を通して相互に引き合う吸引力を内側に擁している。その吸引力は、人種や国境を越えて、我々人間全体に審美的な意象と情感の表現を喚起させる普遍な力を持っているのである。
