「秀骨清像」と「曹衣出水」について

「秀骨清像」と「曹衣出水」について

文/見諶法師

1. 前言

唐代の張彦遠は彼自身の著である『歴代名画記』の中で、南朝の画家の陸探微について「陸公は、自身が感じた審美的な霊験の内から何を画面上に表現するかの選択がこの上なく巧みで、画法の鋭い繊細さと力動感は神がかり的でさえある。筆は刀か錐の如く鋭くて、描く像の内側から自然に漲り出て来る清新さと力強さは鑑賞者に彼の描いた像が生きているかの様な生命力とリアリテイに満ちた力動感を感じさせてくれる」と評している。張彦遠の画評は、単に陸探微画家独りの画法と画風について評しているのではなくて、同時に、事実上、まさに中国美術史における六朝時代の美術作品が描写に鋭く丹念でありながら、創作者である画家の精神の高さと審美的な清新さや深さと画家の生命力の力強さとが、画面上や作品全体にリアリテイに満ちた力動感が漲っている画法と気風を表現している体系的な概括を述べているのである。

魏・晋両王朝時代による南北朝時代が残した偉大な芸術作品の中でも、特に仏教芸術分野における造像物作品群が最も広範囲に跨る多種多様な芸術作品を残している。仏教が漢末から中国に伝来して以来、中国は十六国時代に至る迄、継続的にチベットや西域の仏教諸国や、夏人や華北の平城(現在の大同)に「北魏」を建国して北朝時代を開いた北方遊牧鮮卑族等々を含む「胡人」と呼ばれた異民族の人々によって伝えられた仏教を含む複数の異文化と、華人の中国古来の伝統的な儒教と道教を重んじる中原文化とを融合させて、両者を一体化させて行った。その為、南北朝時代は、新たな中国的な仏教芸術を確立する幕開けになった時代であると言えよう。

但し、古代の中央アジアの西方諸国や西域と呼ばれた中国の新疆地方では、人類が鑿と石材で産み出した相当数の石窟や、それらの石窟に安置してされている夥しい量の仏教芸術造像物や壁画等の作品類が制作されたが、それらは紀元前後時代に遡るほどの遥かな古代に遡る時期に制作されたので、数多くの石窟は破壊されていたり、相当数の造像物類が既に帝国主義の諸外国へ持ち去られている事実は、遺憾な事である。


2. 北魏文成帝の仏教復興策とその後の北魏における仏教の継続的な興隆について

(1) 北魏皇帝の英主太武帝による「廃仏反仏教政策」について

西暦398年、鮮卑拓跋部族軍は華北の山西省の北部半分と華北省を征服して、酋長珪は山西省北部の「平城(現在の「大同」)」を首都に定め、皇帝に即位し太祖道武帝となった。北魏は、第三代の太武帝が支配する世紀428年には、陝西の勢力者「夏王」を滅ぼし、翌年の429年には蒙古に勢力を広げていた従然(じゅうぜん)を討ち、436年には西方甘粛を支配していた「北涼」も征服し、北涼の官民三万戸を平城に強制移住させた。結果、北魏は、山西、陝西、河西、河南、山東、甘粛の全地域に君臨する大帝国になり、これ等の地方が政治、経済、文化の中心地になった。「甘粛」は西域から北魏が新たに支配する領土への仏教流入の伝来路でもあり、甘粛と平城とが直結されたので、仏教も平城地方に急速に流入して来る結果を招いた。タリム盆地の高昌(ガオシャン)、亀茲(クチャ)、和闐(ホータン)、鄯善(ゼンゼン=かつての楼蘭)等のオアシス都市との交流も始まった。そして、大武帝は「宋」を攻撃して淮水まで攻略し、遂に北中国に君臨する北魏大皇帝になった。

ところが、皇帝太武帝を補佐する宰相崔浩は華人であり道教重視の反仏教主義者だった為、440年に太武帝は道教皇帝になり厳しい「廃仏反仏教」の弾圧政策を推進した。この廃仏反仏教政策に対して、鮮卑拓跋部族の本からの貴族達は華人宰相の崔浩が皇帝の側近として権力を奮う事への反感と嫉妬から、また、北魏に征服されて新たに北魏の支配圏に組み込まれた仏教国の旧夏国や旧北涼州等の夏人や胡人達は、廃仏反仏教政策の厳しさに不満を募らせたので、崔浩は失脚し罪人として命を落とした。英主太武帝も45歳の若さで臣下に暗殺されて、「廃仏反仏教」政策は失敗した。

(2) 北魏文成帝による仏教復興策と「雲崗の大石窟」開鑿の関係について

英主太武帝の死後、河北の平城の都にも地方にも仏教復興を要望する声が盛り上がって来ていた。父王の跡を継いで皇帝に即位した文成帝は、政治権力を強固にする目的の為に「仏教復興の詔勅」を直ちに下付した。仏教信仰に燃える人々の仏教復興活動は急速であり熱烈であった。北涼州から平城へ強制的に移住させられた人々の中に高僧の「曇曜」がいたが、英主太武帝が「廃仏反仏教」政策実施中には河北の山中に隠れていた。文成帝による新王朝の仏教復興の新政策に沿って、文成帝は高僧の曇曜を平城に召し出して、復興仏教を指導する「総監」である「沙門統」に任じた。こうして、当時の人類の想像力を越えた大規模な企画と豊かで溢れる曇曜の想像力と美術感覚が、平城の西方の雲崗にある武州塞に大石窟を鑿出して、外崖に大仏像を彫刻したり、石窟群の内外壁にも大小無数の仏像群を彫刻して配置し、これらの全ての仏教芸術作品を鑿で制作し、偉大な仏教芸術の遺産を後世の全人類の為に産み出したのであった。

『魏書・釋老志』に依れば、「(文成帝が下した)詔勅には、石造りの仏像は、(北魏の)皇帝を祀って拝むのと同じであるので、黒い小石で顔と足のそれぞれの箇所に『黒子』を付け加えるべし。何故ならば、皇帝の御身体の上下に黒子があるからである。」と記してあると言う。興光元年(454年)秋には、曇曜に「太祖(道武帝)以下、五皇帝を擬して釈迦の立像五体を鋳造する事を命ずる。各立像の高さは身長一丈六尺とせよ。」の詔(みことのり)が下された。和平初年の460年から465年の5年間に、曇曜は武州川に沿った武州塞に赤壁を鑿出して、五個所の石窟を鑿出した。各石窟に仏像一体を彫り刻んで安置してあり、最も高い背丈の仏像は高さが七十尺もあり、次の高さの仏像でも六十尺もある。石窟内外部の壁にも彫刻が施してあり様々な仏教にちなんだ故事が現してある。それらの装飾模様の意匠も多種多様で、各種の異文化を表す異国風の奇異で珍しい意匠の模様も彫刻してあるが、漢風の味も融合させて混在させてあるので、異文化の味を表す芸術作品群も美的に統一されている。仏像群も壁画もその他付随する僧用の室等の設備の全てを含めて、「規模と企画が壮大で偉大であり、一世の冠に値する程の偉業である」と評された事からも分かる様に、雲崗石窟は世紀460年に鑿出しが開始され、5年後には世界に有名な“曇曜五窟”として完成されたのであった。

世紀493年に孝文帝が首都を河北の平城から江南の洛陽に遷都する迄の33年間、雲崗石窟は相当に大規模な石窟群へと拡大して行った。石窟群の内部には、釈迦の仏像や菩薩像等に加えて、ギリシャ、ローマ、ペルシア、インド、西域諸国の様々な文明や異文化の異なる模様や意匠が漢風の模様と混在して表現してある壁画や装飾が施されているだけでなく、ヒンズー教の「シヴァ神」の様な全く異なる異様な神の像も彫刻されて、大小無数の石造りの仏像や菩薩像と混在して組合されて安置してある。それらの西方や西域や華の中原風の異文化を象徴している各種の芸術作品類を混在させて配置しながらも、石窟群内の芸術作品は、全体的に華夏文化が一体化された融合美を表現している。壁画やそれらの無数の仏像群を安置して保管出来る様に、雲崗石窟の規模も当初に比べて段々と必要に応じて拡大されて行ったのであろう。

武州川は東西に流れており、川の北岸に沿って右手の石の岸壁に彫刻された大仏像や壁画や石窟の入口等が鑿出してある。川が南へ流れる辺りには祠や厨房や僧・寺奴等の宿舎等が建てられておりそれらの各室々の側近くまで川の水が流れている。『水經注』に依ると、「川の流れに沿って作られている小道は、霊巖に満ち満ちている。武州塞を鑿出して掘り出した石窟群は、互いに組合せてあったり、個々に構成されていたりするが、石窟群全体は巖(けわ)しく堅固で、規模は巨大で内容の企画も壮大であり、世にも稀な『水殿の山堂』とでも呼べる。その上、下にある家々や寺やそれらの建物からのぼって来る煙も見える程の眺望もある。」と記載されており、全体の威容と壮大さと石窟全体の雰囲気の特異性が説明されている。

3. 北魏孝文帝による首都遷都による仏教芸術活動に対する影響と発展について

世紀493年に、北魏王朝は当時の皇帝だった孝文帝が首都を河北の平城から江南地方の洛陽へ遷都した。遷都後、孝文帝は洛陽に移住した鮮卑拓跋部民に対して、厳しい「胡俗漢化」政策に従って、華人の高い文化と強要を身に着ける事を勧めた。こうして、平城と洛陽の両都市が、北魏の政治、経済、文化の中心地になった。仏教の興隆の為に、北魏は国力を傾けて支配下にある領土の各地に仏教寺院と塔を建立し、大小さまざまな石窟を継続的に開鑿して行った。国家によって仏教文化の振興と発展を推し進めて、相当多数の石窟や石塔や寺院建築等の仏教活動を通して、民間の人々の仏教信仰心を実際の仏教芸術作品として具現化して行った北魏王朝の推進力は、歴代のどの王朝も累が及ばないほど強力であったと指摘出来よう。例えば、雲崗石窟群の外にも、今でも現存しているその他の石窟や洞窟のほとんどが、北魏時代の文成帝から献文帝を経て孝文帝に至る迄の太和年間の460年~494年の30余年間に開鑿されたものである事が、その視点が正しい事を証明している。

北魏後期になると、北魏は「東魏」と「西魏」に分裂したが、分裂後も石窟開鑿の仏教芸術活動はますます盛んになった。雲崗石窟や龍門石窟に続いて、天龍山や澠池(べんいけ)の鴻慶寺石窟、南北響堂山等に石窟が開鑿された。また、同時期に、南朝の「齊」が建武時代の中期に浙江の新昌に大仏を鑿出した。南京にも棲霞山石窟や四川廣元の山崖に「千仏」が鑿出された。この様に、石窟や仏像の造像は、国家の政治や文化の象徴であり、南北朝の両方の王朝が共に、河西・中原から江南の西南地方に到るまでの各地に継続的に石窟を開鑿したり大仏像を彫刻したりする等の仏教芸術活動を支援して、それらの石窟や仏像類が現在に至る迄も保存されて残っている事は、仏教芸術活動が南北朝時代から更に唐や宋の時代に到る迄、時間的に継続して行った歴史的な事実を物語っている。

「国家と個人が共同で新しいイメージの造像を創造した」という語句の意味は、本質的には、外国から流入し伝来して来た偶像的イメージに対して、華人が深層において自ら抱いている中華文化が現す一種の漢民族文化のイメージ表現を新たに創造したいという心情的な衝動が生まれた。それを具現化するには、外来からの偶像イメージを吸収して、もともと外から伝来して来た仏教の偶像のイメージの層の上に、中原固有の華人の伝統的な文化を重層的に結合させ重ね合わせて一体化した融合体の上に、華人独自の新しい表現を試みながら華人独自の文化的表現のイメージを具現化出来る様な前途に向かって歩み出そうと言う、官民合わせた心情的な衝動が生み出した必然的な結果を表現している語句だと言える。

仏教が普遍的に西方から中国に伝来してから三百年の間に、中国は儒教と道教と仏教の三つを融合させて一体化させた。西方の仏教国の三聖の内、中国の菩薩像を少なからず受け入れている。唐代には、中国の菩薩像は世界的に中国文化の清新さと端正さがよく表現されているという評価を他の仏教国からも得て、反対に外の仏教国家に中国文明の素晴らしさと高さを表す菩薩像の持つ、中華文化的な風格と風采によって他国への影響力を高めたのである。仏教芸術分野において、現代の我々がこのような高い成果と誇りを得ている事は、かつて遠い昔の魏や晋による南北朝時代の、名も伝わっていない造像制作に携わった匠人達全員の黙々とした制作態度と仏教に対する無償の深い信仰心が礎を築いてくれた御蔭である事を、我々は永遠に忘れてはならないのである。(王朝聞編『中国美術史』参考)

4. 仏教芸術に関わる造像碑像類の制作手法及びそれらの題材について

佛教に関わる造像碑像類を産まれ出してくれるのは、それらを制作してくれる工匠達の技術の御蔭であるが、仏教が中国に伝来して来た時期には、工匠達は鋳造や彫刻等の仏像制作の為の題材としてかなり広範囲の事象を対象にしていた。けれども、いつの間にか、仏教の造像碑物類を主に造像する仏像を専門的に鋳造や彫刻の技術を体得して仏像の制作者となって行った。古代の中国では、この様な物造りの手仕事をする工匠達の多くが地位の低い卑賤の出身であり、各自が先祖代々その家系に伝わっていた鋳造や彫刻の技を生かした手仕事をして生計を立てていた。その為、いつでも仕事が有る所へ移動しなければならず、固定的に居住する場所さえ持っていなかったのである。そういう理由で、歴史的に偉大な仏像を彫り上げて立派な仕事をした工匠達の名前も記録にないのが普通である。ところが、西方から東方の中国へ来た僧侶や法師達は、ほとんどが自身も仏教の修行中でありながらも仏像の鋳造や彫刻等の造像碑像を制作する技術を身に付けていた上に、西方の造像制作の原理や審美感 等の芸術的な分野の知識や芸術的な美的感覚も備えていたので、各地の工匠達にそれらの仏像の制作技術を教えて、造像制作の経験と技を教える事を通して、仏教に関わる仏像等の造像技術や仏教芸術の発展を推し進めたのであった。

魏・晋の二王朝が主に中国を支配した南北朝時代において、これ等の造像制作に携わる工匠達も歴史上名を残す事が出来るようになり、歴史書にも「僧祐」と「載逵」父子の名が残されている。僧祐は『弘明集』及び『出三藏記集』の作者である。僧祐は中国の南方に生まれ、十四歳の時に沙門法穎(さもんほうえい=「沙門(中国語)」は「出家者」とか「僧」の意味を表す)に入門して仏教を修得し、仏道の戒律に精通していた。後に梁王朝の武帝皇帝から「貴僧は物事の礼遇を深く理解しており、何事も障碍なく全て的を射る如く適格に捉えて直ちに刺すように鋭く判断・審判を決す」と敬意の籠った言葉を受けた。

当時、僧祐は既に影響力のある高僧になっていたが、学問に精進する学者でもあった。その著『祐録』の中で「広く衆人に向かって御仏の教えを伝道する僧は大衆の模範であるべきだから、私は専ら表面的には、毎日を食べるだけで遣り過ごしていたり、或いは、夜通し灯の下で読書していたりしているだけの、何の煩悩もない毎日を送っているかの様に公には見せるのを仕事としている。しかるに、実は、思考を重ねながら何度も繰り返し迷える心で管から天を窺う様な不安定な時もあるし、或いは、物事の本質を推し測るのみで、実は心は海かと惑わされたりする様な不明確さに惑わされたり、何も把握出来ずに本質を見損なったり、本質をじっと心に積もらせて注意深く見つめて考えながらも、頗る微かな悟りを得るのみなのである」と、何かを決定する時や悟りを得ようとする時の迷いの心情を述べている。この様な思慮深さ故、『梁の高僧傳 巻十一の「釋僧祐伝」』には、「僧祐は、最も仏教の律部に精通しており、先哲に邁(まさ)る有り」と説明してあるのである。

仏立像 北魏時代 石灰岩 H105cm

尚、僧祐が開鑿した造像類には、例えば、光宅寺の「丈九無量寿(阿弥陀菩薩).金像」や江蘇省撮山の棲霞寺で鑿出した「無量寿(阿弥陀菩薩)大仏像」、及び、「剡縣大石仏像(日本語資料では「剡渓大仏」と呼称」等がある。例えば、僧祐がこれらの造像の石窟の設計や造像する際の開鑿作業の完成等を依頼された時の経緯について、『梁の高僧傳 巻十一の「釋僧祐伝」402頁下』に依れば以下の通りである。

――「(僧祐は、最も仏教の律部に精通して・・の部分を省略)・・・祐のせいたるや巧思にして、能目は心計に準じ、匠人の依標に及びては、尺付も爽(たが)う無し。故に光宅、撮山の大像、剡県の石仏等、並びに祐に請いて経始し儀則を准画す。」

――の説明に依っても、僧祐の造像の優れた能力と技術が高く評されていた所以が分かる。光宅寺とは、「梁」の皇帝武帝が引き継いだ後、寺に捨齋して寄進した寺で、天藍六年に僧祐に光宅寺の当時未完のままになっていた「無量寿(阿弥陀菩薩)金像」を造像させる作業を継続して完成させる事に決定したのである。(『南朝寺考』)

「撮山大無量(日本では「摂山阿弥陀」の別称も有り)仏大像」や「剡縣大仏」等の両大仏像は、南朝時代に僧祐が仕上げて開鑿した造像であり、僧祐が設計した石窟にある。「撮山大無量仏大像」は前述の通り、南京の棲霞寺にある石窟にあり、仏身は座位で高さは四丈ある。「剡縣石仏」は、浙江省新昌県の西南にある寶相寺にあり、「齊」王朝の建武時代に開鑿し始めたが未完の儘であったのを、天藍七年に王朝が詔勅を下して僧祐を派遣して専任で鑿出継続作を委ねた。この石仏は当時としてはそれほどの規模が大きい石仏の造像は稀有であったので、規模が大層珍しいいほど非常に大きくて、仏身の高さは十丈もあり、御仏の面相は「深思しており端正で」、「厳かでも麗しい特殊性を漂わせながら」、「僅かに思いに耽っている」表情で仕上げられている。

僧祐の子息の載逵(たいぎ=別名「載安道」)は、中国の美術史上著名な雕塑家であり画家であるのみならず、文、工芸、書道、絵画、巧みな琴の奏者、等、彫塑・彫刻・絵画・書道・音楽等の美術工芸分野に加えて、文学や音楽等の分野にも他に比類を見ない程の才能に恵まれた天才的な芸術家であった。隠れた逸話を収めている『晉書』に依れば、載逵について、「載逵の性格は、高潔で、常に礼を重んじて自重し、放逸で節操の無い言動は人の道から外れていると見做しており、心と度量の深さを持っている」と評している。載逵は、性格が巧思な上、造像の鋳造・彫塑・彫刻のいずれの芸術活動においても良い作品を制作する美的感覚を自らの思惟層で感受する鋭い感受性を持っており、又、思惟層で感じ取った審美感覚を創造して表現出来る高度な匠の技を持っていた。『歴代名画記 巻5』によれば「載逵は、ある時、かつて古い以前の時代に造像された木造で、身の高六丈の無量寿(阿弥陀)仏と菩薩像を見る機会があった時に、それらの仏像を見て『古代の仏像は(異民族文化の風合いと好みが色濃く表現されているので、現代の自分の美的感覚とは合わないと見做したのか)敬う心を開くにしては、心を動かすに足らず』と評した」と言う。

更に、同書に依れば、載逵は、「潜かに帷の中に座り、密かに人々の衆議を聴き、聴いた意見や評に対して自分が褒めたり同意せずに貶めたりした時には、その都度、自身の考察や審判や判断を詳細に加筆した。そして、(衆議によって得た、士大夫階級の人々の美的感覚と好みを加えた、自分なりの新しい仏像の彫塑法や彫刻法等を)三年程も思索した後に、自分自身で納得出来る新しい仏像を彫塑・彫刻して制作する(図像のイメージの原型を把握する)に至ったのであった。」との記載がある。

また、『世説新語・巧藝』によれば、「(載逵は)詩や詞文の内容も字体も美しくて素晴らしいし、心がゆったりとした度量も言葉で表現出来ない程巧みで絶妙であり、図面や絵画の筆の冴えも出来栄えも聖賢の域に達しているので、全ての巧藝家や工匠達の模範になるべき芸術家である」と評している事からも、載逵が内に持ってい文芸両分野における自らの思惟層を通して得た審美感を感じる感受性とそれを表す表現力と、想像力と、それ等の感覚を基にして制作する造像類に具体的に表現して具現化する創造力と理解力の全てを総合的に彼自身の部分として有していたのを反映した、彼の文化的な水準と技藝に対する造詣の水準が如何に高くて深かったかを物語っている。

載逵に対する評を続けると、「(載逵の)良き文章や良き詩や詞文を書く能力も絵画の腕も造像を彫塑したり鋳造したりする技と美的感覚等の全てが余りに偉大で素晴らしいので、唐代の張彦遠は、漢・魏時代後造像された仏像群は、全て、『(載逵が評した通り)表現法も形制度も古くて僕拙で、心から敬う気持ちになるには足らず』であるのは全て事実であるので、この時代に到り、やっと載逵の様な天才的な芸術家が出現して、それ以後、初めて中国の芸術分野全般が発展し前進出来た事は、唐代以後になって後に続く曹仲達、張僧絲、等々の他の芸術家によって制作された仏像が、まるで人物画の画風に影響を受けた様なリアリテイに富んだ効果的な趣を加味した力動観溢れる仏像類として具現化され、制作された事で証明される、と評したのであった。

載逵は、真に創造性豊かな芸術家であり、「古制」の規範によって表現と表現手法が規制されてきた事に対して、仏教の仏像にもっと審美的な面で鑑賞する人々を感動させる力を与えなければならないと悟って、「古制」の概念と規制を改革して、仏像制作者達が自らの美的感覚を自由に表現する手法で仏像を制作すべき必要があると心から信じて古い伝統的な造像観念を改革し、当時の南朝社会の士大夫階級の持つ美的感覚を反映させて仏像を造像した。それらの新感覚を内側から放つ仏像を造像擦る事によって、南朝的審美基準が徐々に形成されて行ったのである。載逵の芸術的な追求心そのものが、「人の心を感動し動かす力を持つ芸術の特質」だったのであり、載逵が提起した画期的な視点の重要さは、仏像とは単に仏教徒達が御仏の力にすがって「今世の苦しい人生を少しでも楽に生きられる様に、そして、死後は『天の宮殿』に入れるようにと祈る為に拝む対象」のみにあらず、仏像の制作者の主観と美的感覚を表現する芸術作品の一種であると制作者に警告を与えて認めさせた事にある。その載逵の画期的な視点が、彼を仏教芸術分野における歴史的に偉大な芸術家として世界に名を残せしめている所以であると指摘出来る。

南朝の晋・梁時代に於いて異文化と中国の伝統的な中原文化を融合させて一体化させた、新しい漢風の審美基準を表す様式と巧藝手法を前面に押し出した新しい表現法が、載逵の生きた晋・梁の南朝時代から段々と大衆の中に広がって、首が細くて全身が流麗で仏の面相は深思しながらも端正で洗練された風格を持つ「秀骨清像」に見出される様な、芸術的な風格を表現した仏像の制作を促進して花開き始めた。南朝の教養ある士大夫階級の人々の社会的・文化的に高い水準の好みを中心にした、華人大衆の新しい心情や漢風の流麗で洗練された好みを、仏像を含めた芸術作品類上に影響させて表現したいという自然な心理的要求を反映した仏像や絵画が現れ始めた。華夏の両文化が融合し一体化されて、その一体化された融合体の上に、「儒・仏・道」の三つの精神的・社会的・文化的な要素が結合した華人の美的感覚と芸術性を中心に制作された芸術重視の社会的な傾向と結び合って、新しい中原文化を産み出したのである。

この新中原文化とも言うべき華風の洗練された風格濃い新しい文化的風潮は、芸術分野における新しい表現手法として仏教芸術分野でも反映された。仏像の表情にも仏身全体の身体的な特徴も、より漢民族風の洗練された風格を持った仏像が制作されはじめたのであった。その風潮とは、後の隋・唐代において、仏教芸術が更に大きく発展して実を結ぶ結果になる歴史的な前兆であった事が指摘出来よう。

「古制」は仏教における造像の図像と様式と作風等の基本的な「規範」を示す概念的体系である。題材と内容と造形的な特徴等も「古制」に含まれる。中国仏教美術の源は中央アジアとインドである。「古制」に基づいて造像された仏像の顔の表情や身体的な特徴等の造形に依って判断すると、それらの造型物は仏教の経典の内容を形象化して表現されているのみに過ぎないのである。早期に造像された仏像を含む主な造形類は、釈迦牟尼の「本生譚(ほんじょうたん=釈迦牟尼を巡る説話や伝説、或いは、仏の前生譚を指す)」等を表現の題材として用いてあるので、南北朝時代に中原一帯に「大乗仏教」が伝来して以来、仏教芸術分野の芸術家による表現は、主に『法華経』と『維摩詰経(ゆいまきっきょう)』等の大乗仏教の経典を基にした題材を表現した。『維摩詰経』、或いは『維摩経』)とは、釈迦の弟子の一人で「維摩詰」、略して「維摩」の名前を持つインド人の高弟による説話をまとめた経典を指す。

その為、早期の中国仏教における造像類は、インド及びガンダーラ仏教経典の記載の内容に沿って定められた「古制」様式と表現法による影響を受けて制作された物である。それ故、それらの仏像を観察すると、仏像全体の体重がどっしりとした形状に加えて、例えば、肉髻、面相、手印(印を結ぶ手の組み方)、光背、等の特徴は、全て仏教の経典に沿って予め決められた題材や様式やその他の内容に依拠して制作されている。我々は、中国各地で早期に造像された大部分の仏像や造像碑類が、明らかに仏教の経典によって理想的と看做された内容を反映する「古制」に厳格に依拠して制作された事を発見し、その事実を認める事が出来る。

もし、仏像を自らの思惟層内の審美感覚を把握する思惟層を通して、ある種の美的感覚を刺激され、その美的感覚のイメージの「図像」を把握し、その「図像」に基づいて一造形を創造し、「一作品」として具現化する芸術家の創作活動の観点から述べれば、この様に芸術家が自ら感じて得た審美感覚を自らの創造力に依って制作する場合に、「古制」で厳格に定められた理想とする造形を制作する様にと言う、「規範」によって制限を受けている場合には、制作者の創作の自由は存在しない。早期に制作された各種の壁画や彩色画や仏教の造像仏等の造形類は、仏教の経典の中に発見出来る事象や内容に依拠した「古制」の規範範囲内であるなら、制作を許されたという制限を受けた。その為、造像の制作者にとっては、「古制」の定めた伝統的で不変な「規範」で許容される範囲内の様式を断続させず、継続的に宗教の内容と審美による功能を深く掘り下げて追及する態度で制作活動を続けられるとは言うものの、造像する仏像の造形を「規範」によって制されながらも「一つの造形」として具現化させて展示するには、実際には、制作者の思惟層に属する特定の審美感覚に関わる層を通して、何度も反覆と選択とを繰り返した結果具現化させた「一造形作品」なのである。仏教に関する造像物類には、一般の美術作品に見出される前述の様な規範性も有してはいるが、それらの仏像を創造する為には、必然的に審美性に加えて神性も不断に追及された上で創造されている。それは、造像仏像類とは、宗教が理想とする概念と審美的なイメージとを合わせ持って表現されている造形物の典型でなくてはならないからである。

但し、注意せねばならない点は、仏教が中国に伝来してから三百年を過ぎてから、中国の芸術家の間で、華人自身の好みと風格を反映させた芸術作品を創造しようとする芸術的な要求と動きが出現した事は、一種の宗教的典型と符号する点である。当時のこの風潮は、華夏両文化を融合させ一体化させた上層に、中国の芸術家や士大夫の高い教養や好みや風格を統一させたもので重ね合わせて、華風の好みと高い風格に満ちた新しい中原文化を形成したのであった。新しい中原文化を反映させた新しい表現法によって実際の造形物として具現化させたい、という人々の心の要求と、それを創造しようという芸術家の動きとは、芸術家達に中原社会が産み出した新しい審美的価値観念を受け入れて、新しい中原文化が表す美的感覚と風格に満ちた造像類を創造し制作し始めさせたのである。

この種の改革の動きは、中国における仏教芸術領域を成熟させて、魏・晋による南北朝時代に初めて中国独自の高い風格と文化を表現する偉大な仏教芸術作品を芸術家達に創造し始めさせたのである。その意味では、魏・晋による南北朝時代とは、中国における「文領域全体の価値」を自覚する時代であり、同時に「人性という、人の本質に関わる領域の価値」を自覚する時代でもあった。この時代は、芸術分野にも芸術的な(真に華風の)特徴や規律を具現化させて研鑽させる方向へ導く様な、美術理論の体系を確立すべき自覚を促したのであった。特に、仏教芸術領域は、文化と人の質を自覚する体系から更に独立した独自の美術理論体系を創り始めた時代で、その新しい中国独自の表現法を産み出した価値観念は、既にギリシャやインドの表現法とは異なっている。中国仏教美術の観念によって表現される造像仏像類の「法相」は、外観上の造形物を成している外に、更に重要な点は、外観上の造形物を通して見る者に感じさせる「仏像その物が、内在的に備えて内から発散させている上品な気質と、禅が定める慈愛に満ちた心の静寂さと内在する精神的な風韻を、具現化して表現している。

仏立像 北齊時代 石灰岩 H 135 cm

先ず、中国仏教においては、造像はインド仏教美術の持つ強烈な肉感的で性感を漂わせている特徴を消化し、中国思想の重要な一部分を形成する「性的な欲望感覚を理性で超越すべき」という理性的な思考重視の点に「人間の本質に関わる人間の本性」の価値を強調する。その為中原文化は外来のこの様な肉感的で性感の漂うインド美術の内容を淡白に且つ詩的に変化させた。インド様式の仏像類の纏っている衣服は、身体に薄い衣を纏っているだけの仏像であったので、(当時はこの様なインド様式の仏像を「裸像」と呼んでおり、後に「東魏」から政権を受け継いだ「北齊」では、曹仲達が仏像画中の仏像に華風の衣服を纏った仏像を描いたので、それ以後華風の衣服を纏った仏像や造像仏像を、「曹家様」とか「曹衣出水」様式の仏像、等と称する様になった)インド様式の仏像の性感を減少させて、肉感的な物体は造形の重点ではなく、仏や菩薩像の中性化に転化させた。芸術作品を制作する工匠人達は、人間の持つ感覚器官を通して感じる情欲を超越するのが理想的であると見做す宗教的な永恆性(えいごうせい)を造形の形像として表現する事を理想と看做して造像制作をした改革の軌跡は、その後の時代に開鑿された中原地域の石窟内に彫刻された石造りの造像仏像類に見出す事が出来る。

しかし乍ら、中国仏教における造像類は、ギリシャのガンダーラ仏教芸術に見られる様な「リアリテイ」を保持しながらも、仏教が理想とする概念を抽象化させて表現している。ガンダーラ仏教芸術は、事物の真実を表現する情景を忠実に丹念に自然で写実的に表現する叙述性があり、この基本的な概念は、芸術家に対しては、必然的に時間と空間の相互関連性を視覚に拠って探究する芸術的な面を促進させるので、創造的な対象物でも「リアリテイ」に満ちた描写効果を出す援けとなる。中国の芸術おいては、時間と空間の相互関係を解き明かす別の解釋は、時空はとは、実際には、目に見えないから停滞している様に感じられる様な受身的な時空間ではなくて、我々人間が創造する時の対象を成す「時空の流動的なものが同的に融合ししかも一体になっているダイナミックな融合感」である。言い換えれば、それは、六朝以来、華人が言い伝えて来た「気の勢い」と「意」の相互関係を指すのである。「気の勢い」と「意」とは、目で見える「形」を用いて具現化されなければ見る者は把握出来ないので、創造する対象である物体を、忠実に仔細に画面に描いたり造像仏像の上に細部に至るまで実際に描写したものを反映させたりする必要は無く、制作者は創造する対象物を、簡素化されたイメージとして捉えて、その全体を直感的に表現すれば良いのである。

その意味では、造像制作者にとって、自分の抱いた「仏像のイメージ」を具現化し創造する制作行為とは、永久に不変な時空の中に漂っている仏像の在処の情景を忠実に丹念に描写して、鑑賞者の目に見える「仏像」として具現化する必要がないのである。この表現方式と仏教思想と老荘美学思想とは、互いの節がぴったりと符合し合っている。我々が敦煌や雲崗の石窟の中に入って行って、そこで古来より存在している御仏と説話を交わし合うと、時間や空間の存在さえも完全に忘れてしまい、一千万年の時が過ぎ去った後でもその彷彿感は全く変化しないだろうと感ぜずにはいられない。

佛教における造像制作の表現法に変化とは、所謂梵式が漢式へと変化したのであり華夏両文化の芸術的な特徴と両文化の融合を具現化した変遷の軌跡とも言える。西域地域における石窟の中に彫刻されて安置されている仏像群は、中央アジア人達の身体的な特徴を表している容貌が明らかに認められる。但し、その石窟文化の傾向と風潮が中原方向へと移動して来た早期には、それでも尚、インド的なグプタ仏教芸術やギリシャのガンダーラ仏教美術の影響が華人の制作者によって造像された仏像上にも留保され表現されていた。しかし、中国の六朝時代になると、中国の芸術家達によって、仏教の仏像は、本来のインド的グプタ様式やギリシャのガンダーラ仏教芸術様式等々で表現された中央アジア人的な身体的特徴を外観上の特殊な容貌に持つ仏像類を、完全に保持する事が不可能になったのである。中原文化と審美的な価値観と漢人の身体的な特徴を表している仏像とは、例えば、肉髻は高いものから低いものへと変化し、仏像の面相は痩せて端正で慈愛に溢れ、思惟している厳粛さもあり、体付きは頸が細くて、身体が細身で長く流麗で、褒衣(ほうい)で袖は広く、博帯式の衣服を着ており、袈裟の下に衣分線を表す襞を重畳式に集めて、条帛は腹部で交差するか、或いは、璧(へき)を穿ち通している「X字状天衣」で、大裙は両角が長く尖っていて裾が広がっており、中原士大夫風の高い文化と気品ある特徴を具えており、魏・晋時代の楚々とした衣冠を着けた「秀骨清像」は、実に上品な風韻と高い文化の香りに満ちた気質を持つ六朝時代の士大夫の風範を示している。造像された仏像類は、神聖で且つ荘重な趣を放ち、典雅で流麗であり而して寧静な高貴で上品な気とイメージに溢れており、既に、西域を経てインドから中国に伝来した早期の原始的な仏教の仏像類とは異なっている。それは、又、この魏・晋時代に中華民族によって新しい中原文化が形成され、その高い文化的な審美感の基準と主観的で躍動感に満ちた中原文化が人々に、仏教芸術分野における造像文化の内的な質と宗教の教義と理論を新たに説き明かして理解させて、中国独自の仏教芸術形成への新しい方向を示した風潮を反映しているのである。

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