東方の中国に移入後の仏塔の変遷――仏教芸術における仏塔の意義 と形式(二)

東方の中国に移入後の仏塔の変遷――仏教芸術における仏塔の意義 と形式(二)

文/見諶法師

早期の仏教寺院における仏塔の位置

独立で卒塔婆を建造する場合を除いては、早期の仏教寺院における「卒塔婆」とは「(卒塔婆)仏塔院」とよばれて、古代インドでは、その当時、石窟を開鑿して仏教寺院を建造して、その石窟の中の仏教寺院の主要な「本院」の窟から遠くない崖に「卒塔婆仏仏塔」用の窟を別に開鑿して「中心的な仏塔院」用の窟を建造した。その為、この「中心塔院」の窟は、石窟の中では民衆が礼拝をする場所であったので、「中心的な仏塔院」は寺院の建物の中でも重要な建物と役目を負っていた所であったと理解出来る。「中心塔院」の窟は往々にして馬蹄形であり、「中心塔院」を構成する複数の窟の中には、無数の「卒塔婆塔」が建造してあった。

『玄應音義六』に依ると、「諸経論の中には、或いは「数斗波」と呼び、或いは「塔婆」と呼び、或いは「兜婆」と言い、或いは「愉婆」と云い、或いは「蘇愉婆」と言い、或いは「脂帝」と言い、或いは「浮都」、或いは「浮都」、或いは「支提」と言い、或いは「浮図」と言うが、皆、訛りであったり省略形であったり、である。正式な名称は、「窣都波」と言い、この語は、解釈としては「廟」の意味を、形象的な表現としては「四角形の墳墓」の意味を、意義としては「翻」の意味の、三種類の名詞が表す意味全てを兼ね合わせた意味を表すのである。或いは、「大きな塚」と表現出来るし、或いは「集合したもの」とも言えるし、謂く、「石を重ねて高くした物」とも言える。

「塔」の字に準じた意味とはっきりしているので、書籍は何の解釋も加えない。只、『葛洪字苑』のみが、「『塔』を指示し、『仏塔』である也」と定義して断定している。

この中間の解釋は、早期の仏教が中国へ流れて来る様に伝来して来た過程において、中国人は、「塔」と「堂」とは、同一の意味を表す相似した概念であると理解した為に、往々にして「窣都波=『仏塔』の意味を表す」を「支提=日本語では『納骨安置堂』を指す」或いは「制低」の名称で呼び慣れていたのである。実際は、これ等の語彙は、訛りの発音で以って伝えられたのである。(注2)『翻譯名義集』及び『西域記』によって既に指摘された様に、現在のチベット地域は、今でも「仏塔」を、「支提」の名称を用いて呼ぶ。この視点から考えると、「窣都波」と「仏堂」との使用上の意味的な関係は早期から相当密接だったと言う事が分かる。


2. インド早期の遺跡で見られる仏塔のデザインと建築様式について

 

インドの『納骨安置場』と寺院とは、やはり卒塔婆仏塔を中心に建造された。例えば、バハジャー(Bahaja)石窟院やカーレ(Karle)やナシク(Nasiki)等の石窟院の期形式は、殆ど全ての早期仏塔の位置が寺院の中心を占めている位置に建造する最も早期の建築形式を示す。考古学者は、今日のパキスタンの仏塔であるタキシーラ(Taxila)及びパシュワール(Pashawar)の古代ガンダーラ付近で発見された著名な仏教遺跡の発見物の中では、ダルマラジカ(Dharmarajika)及びカニシカ大塔が主な代表的な塔である。ダルマラジカは、タキシーラにある仏教寺院の中では本も古い寺院で、規模も最も大きい。ダルマラジカの意味とは、「護衛正法」、或いは「法王」を指す。名前の由来は、ショーカ王が建造した大塔であるのを記念して名づけられた名称だと言う。建造時期は、世紀後約一から五世紀の差異である。

ダルマラジカ(Dharmarajika)仏塔

寺院の中心を成しているのは、一座の巨大な円形の塔である。その塔の中心部分がショーカ王時期に建造された部分であると言う。その後、その塔は継続的に増築されて一座の大型の石塔を形成した。現存している建物の直径は47尺で、周囲には多数の小さい塔がある。東北部には仏堂があり、破壊の程度は相当厳重である。大塔野北側には僧院があり、院内には経典講義堂と僧房の遺跡が残存している。四世紀には中国の晉の時代に法顕(ほっけん)法師がタクシーラを訪れた時は、その地は「ダウシシーラ」と呼ばれていた。「民衆はとても福を営んで裕福で、諸国王も臣民も、仏教への信仰心が厚くて、年に一度は無遮大会(むしゃだいえ)を設けて人民に恵みを施す。諸国の僧侶を集めて供養し、燈火を灯して、ひっきりなしに花火を散らして大騒ぎで祝う。」と『西域記』に書いたが、後の宋時代に玄奘法師がこの地に到達した時には、既に「伽藍は数多くあるが、甚だしく荒廃している。」という感想を受けた。

又、パシュワールの仏教の遺跡は更に多くの物が随所に見える。特に目の前にはシャチクドリのカニシカ大塔が見える。この塔に関しては、我が国の書籍類に既に記載されている。『洛陽伽藍記』では、道栄による所見を以下の通り記載している: 「高さ三丈で、文石を用いて高くて平らな土台を造り、「階段の下のきざはしは、柱が合わさる様に斜めに向き合って組んであり、木材を多数合わせて上に渡してある。等級は十三級である。」上には銅柱に金製の相輪が嵌め込んであり、ちょうど「旭日が上り始めて、黄金の盤が光り輝き、微風がさざめいて、正に寶鐸を鳴らしている如くの様である。西域の(卒塔婆)浮図は最高に良い。」『宋云行記』は「『浮図』で雀でさえも避ける程、周囲には何もいない」の感想を述べる。『大唐西域記』には、更に詳しい記録がある(注3)。ダンダーラの仏教寺院の特徴は以下の通りである:

寺院は塔院と僧院の梁部分に分かれており、死者と供養者用の用地は――僧侶用の用地の一部に組み込まれていて、寺院の中に有る。塔院と僧院の間には中庭が付いていて互いに隔てられている。塔院は仏塔を中心に建造されており、周囲には相当数の小さい塔と仏堂が建てられている。塔は、早期仏教の寺院では、民衆が死者の御霊を礼拝してご供養する対象であった(注4)。又、『摩詞僧祇律』にも次の記載がある:「僧侶が伽藍に来たら、先ず、塔を建造する予定の土地を選んで置く。」(仏教はインドから中央アジア経由で中国へ来たので) 中央アジアから直接影響を受けた中国だったから、新疆及び中国の敦煌や雲岡の仏教建築様式の中心は「塔柱と石窟」であるのは、早期の仏教の寺院では塔院建築が中心を成していたからであり、その源はインドの早期の仏教建築形式にあり、その建築様式の伝統を保持する目的があった故にその様な塔柱と石窟を中心にした佛教建築様式がひろまったのだと納得出来る。


3. 仏塔の中国へ伝来後の建築デザイン及び建築様式の変化について

仏教が後漢時代に中国に伝来後からずっと唐に到るまで、そして宋以後でも、その伝統的な仏教建築様式を保持して来たのは、仏塔形式の中国化を成し遂げた事と共に、時代の推移に従って塔院の功能が変化したのに適応させながら今日迄来たからでもある。仏教建築様式上の変化とは、早期中央アジア地域においては、仏塔が中心的だった建築様式から、仏教が中国に伝来した後には、段々と寺院建築の主要な位置を、「塔」から「大仏殿」へ移した事によって「卒塔婆仏塔」の持つ死者の遺骨を納めて御霊を供養する為の目的機能と、「大仏殿」での「仏教徒の集団公開参拝の為」の目的機能とを両立させられる様に、建築様式さえも時代の要望に応えて変化させて、新しく「二塔院建築様式」を創り出して、世の中の要望の変化に適応させて来たからである。

後漢時代に仏教が中国に伝えられた早期には、中国における仏教建築様式は、仏塔建築が中心を成した塔中心の仏教建築が発展した。但し、北魏以前の仏教建築の遺跡を現代の我々が観察して理解出来る事は、中国における数多の戦乱によって各地で権力乱立の時期が多かった歴史的な背景によって、戦乱と火事と飢餓から生まれた荒廃と煙火を何度も体験しながらも、中国人の想像力によって今日まで生き抜いて来た事実である。その様に悲惨な戦乱の歴史を生き抜いて来た人間と共に、仏教も同じ様に歴史の重みを背負いながら今日迄生き延びてきたのである。かつて三国時代に、笮融法師が仏教の寺を建立した時には、民衆が公開の集団で仏像を礼拝したり、祈願したり出来る様に、一階の「大仏殿」の上の層に、「卒塔婆仏塔殿」を合わせ持った建築様式を設計して仏塔院兼大仏殿院を合わせ持った寺院を建築したのであった。

何本もの鋼柱を垂直に用いて上部の九層の床には銅盤を用いて建造し、最下層部の一階の「大仏殿」の建築工法を最も重視した。九層建ての中国式の「楼閣建築様式」で建造されている高くて重い塔を支えられる様に、笮融法師当時の最高の建築技術を注ぎ込んで、高くて壮大な規模の「仏塔兼大仏殿付寺院」を建築したのであった。最下部の一階の「大仏を据え置いた公開の集団用礼拝場」に入場可能な許容人数は、三千人もの夥しい程の多人数を一度に許容する事が出来る程の広い面積の塔ではあったが、正しくは、階上の八層全てに「室内用の個別の小形卒塔婆塔」を建造して相当量の死者の遺骨を納められる様に設計して建造してある。又、階下の一階には現在の仏教寺院の「大仏殿」と同じ構想で公開の集団用大礼拝場として設計して、金銅仏像に錦の布で縫った天衣を纏わせて民衆が好きな時に仏像を参拝出来る様にした(注5)。

この仏教建築物は中国における最初の仏教寺院であったが、同時に、卒塔婆仏塔の機能と仏教寺院の「仏教の経典を講釈し講義するのと同時に、仏像を参拝してお参りをする場所としての「大仏殿」の機能を抱き合わせて兼ねていた、笮融法師による「浮図祠」を中心に設計されながらも、中国化された中原風の九層の楼閣様式のデザインの「卒塔婆仏塔」であり、漢人によって創出された世界で最初の『中国式仏塔院+本堂院合体の、二院制仏教建築様式」であると認められる。

南北朝時代になると、中国は敦煌や雲岡で開鑿した石窟の中で、インド仏教の「卒塔婆仏塔」建築様式重視の影響を見る事が出来る。石窟の中心の柱窟の形式はこの一時期の主要な仏教建築様式を示す。但し、それでも石窟開鑿の工法にも大きな変化が表れている。例えば、インド風の円形卒塔婆の造型デザインが四角形で二層の仏柱形式への変化が観察出来る。また、窟の天井の全体のデザインと構築方法にも変化が認められる。「本堂」である「主室」は平らの窟頂にあり、第268窟は長方形の主窟で、天井はの天井は「斗四平棊(ラテルネンデッケの平天井)」を塑形しているが、第272窟は、「方形の窟で、ゆるいドーム状の窟頂に『斗四藻井(ラテルネンデッケの藻井)』」を塑形している。これに対して、第275窟は、長方形の単室窟で、天井は「中原の木造建築を受け継いだ『人字披(切り妻形)』窟頂で、脊枋(むなき)と椽木(たるき)が浮き塑されている。」この様に、敦煌の石窟の天井のデザインと工法にも時代の変遷によって形制がそれぞれ異なって来ており、中心塔柱窟がない。特に、第275窟の天井のデザインと工法に中国化の影響が顕著に見出せる。

また、仏教を広く流布する為に、仏教芸術家は大量の塑造の仏像を制作し、絵画や壁画を描き始めた。元来の仏塔の空間だけでは、民衆の仏教芸術に対する熱望と需要に応える事が不可能になって来たので、当時の帝王を御仏と同じと見做して仏像を造像して参拝する様になった。この流れに沿って、仏像は厳めしい威儀と支配力を表現する為に、背丈が高くて重々しい雰囲気を持った仏像も大量に制作された。その結果、大きな仏像を「本堂」に据え置く為に、又、仏教信徒の人口も増加した事も加わって、寺院も広い面積の設計で建築されねばならなかったので、仏教建築は、仏塔建築中心の様式から、殿堂建築中心の様式へと変化せざるを得なかったのである。戦乱の多い「有為千変」の時代の需要に応える為に、創出された中国化を示す仏教建築の最も有名な例としては、『洛陽伽藍記』に依れば、北魏時期に洛陽に建築された景明寺と永寧寺である。景明寺は七級の木造の仏塔を持つ寺である。永寧寺は九級の寺であり、北後皇家の建築による最大の寺院であり、木造九層で高さは20丈もあり、四面門があり、大塔の北側には魏の宮廷の「大極殿」そっくりの「大仏殿」が有って、大塔は中国の中原の伝統と風格を備えた「楼閣式の仏塔建築様式」を採用していた。

1979年に永寧寺の遺跡を発掘した際には、木造九層造りの大塔は南向きで永寧寺の中心を成しており、下方の面積は38.2公尺、高さは2.2公尺の基壇がある。南北朝後期には、北魏と梁の両王朝は、仏教寺院の建立と造像仏像の数量が最大の制作量に達した時期であった。洛陽だけでも1361の寺院があった。中国の仏教寺院の発展は、かつてインドの天竺から伝来した卒塔婆仏閣の図象デザインの原型、中国中原風の風格を持った楼閣式の仏塔へと変化した外、インドの卒塔婆の原型である円形も六角から八角へ、更に、八角から十二角にまで変化した。また、仏塔の中心を成す塔院の原型は、仏塔の中軸線上の前塔から後殿ヘと位置を変えて、最後の段階では、殿(主室)が寺院の中心を占める位置へと変化した。最後に、本来は仏塔が南向きであったのが、段々と寺院が南向きになる様に設計されて建築されたり、或いは、「中軸線上に並べて建造する双塔建築形式」への建築様式で建築されたりして、複雑に変化した。南北朝時代に建造された寺院の大多数が既に破損されて毀壊しており、今日では河南省の登封にある「嵩岳寺の塔が保存されているのみである。この仏塔は、北魏時代の正光四年(523年)に建立されており、現存している最も古い石造仏塔であると言えよう。


4. 仏塔の建築様式

「大雁塔」- 唐時代
長安 - 楼閣式仏塔様式の塔

「釈迦塔」- 遼時代
山西應県 - 隠閉式仏塔様式の塔

「喇嘛塔」-元時代 密教寺院の仏塔の代表的な造形-山西・五台山-隠閉式仏塔様式の塔

仏塔は非常に長い歳月を経て発展して来た関係で、中国文化における建築様式の美的感覚と無理なく結合して、既に仏塔建築デザインは既に中国化している関係上、その変化は時代を経るに従って、多様化しており、複雑化している。仏塔建築様式に関して述べれば、通常、「楼閣式」と「隠閉式」の二種類に分けられる。「楼閣式」の仏塔形式は、インドの卒塔婆仏塔形式のデザインと、我が国中原文化の伝統的な建築様式である楼閣式のデザインとが組合さって、中国化された仏塔建築様式であって、我が国において創めて産み出された様式である。前述したように、中国で建造された仏塔は数多くあるが、その内でも笮融法師が建造した仏塔や、洛陽の永寧寺塔や唐代の長安大雁塔、玄奘塔、蘇州の虎丘雲岩寺塔等の仏塔は、全て楼閣式様式の建築デザインである。一方、「隠閉式」の塔について、著者自身の真実の気持ちを述べれば、造形上、重層的に積み重なっている事物を覆い隠している重い圧迫感を感じる。唐代以後は、仏塔の建築様式は、もともとは外見が隠閉式だった塔でも、「楼閣式」を取り入れる風潮を中心に発展して来た。例えば、嵩岳寺塔、唐時代の長安の薦福寺の小雁塔、遼時代の山西県に建造された釈迦塔、等々は、皆、隠閉式の塔である。


5. 仏塔の性質に基づいた分類法

雲南麗江崇聖寺的三座の白塔主塔は隠閉式の塔山水の間に建立されており、その造形美は悠久に見る者を飽きさせない。

 

最後に、塔を建立する動機、目的、功能等の視点から、塔を分別するのを試みたい。

(1)塔には、造像等、経塔、幢式塔、多寶塔、等の様な仏教寺院の功徳に

なる目的で以って建立される塔である。これらの塔の表面には、通常、経典中の著名な高僧等やその他の有名な人物の像とか、各種の模様等を彫刻してある。彫刻は一様に精緻で材料は石材である。その為、大半は石塔である場合が多い。塔の内部に様々な行動が出来る程の実際的な空間は備えていない。これらの塔は唐・宋以来の中国の伝統的な造形美を保持している。

(2)金剛塔、法輪塔、五輪塔及び喇嘛塔、等の塔は、殆どの塔が密教の寺院の塔である。蒙古、満洲、チベット、ネパール等で盛んな喇嘛教(ラマ教)も密教に属する。上記の塔は、皆、密教の教義の流布と布教活動とに関係がある。(日本では「真言宗」と「天台宗」が密教に属する仏教である。)特に、五輪塔と喇嘛塔を重視している。五輪塔は、水、火、風、空(そら)等の自然物の意味を表していると言う。喇嘛塔は、中国の元時代から密教を代表する象徴的な造形である。例えば、北京の妙應寺の「白塔」は元時代のネパールのアニガ藝師が建造した塔である。

(3)墓塔の類は、寺院の圓寂祖師や高僧が建立する墓塔である。最も有名な墓塔は、例えば、嵩山にある少林寺の塔林、及び、北京の( )柘寺の塔林。

(4)経律に依拠して、経律所が建立した塔で、例えば、髪爪塔、八大霊塔、辟支仏塔、千仏塔、等(注6)。

6. 結び――塔の功能について

塔の功能とは、我々に、高い山に登って遥かな遠くまで続く下界を見渡して、目に見える全ての物を遠望するかの様な穏やかな喜びの感覚を与えてくれる。仏塔は山水の間に佇んでいて、風に臨んでいても負けずに凛と立っていて、我々が墨で題目と詩を綴る時や、特に文をたしなむ人がお客と墨を使って詩作をしながら、詩を書きつける時を共に楽しむ時を分かち合い、詩でも詠みたいと言う詩意を起こさせる。塔は、我々に自分自身を人との争いから遠く隔てさせて、心情的に静かで幸せな気分を与えてくれる特質を持っている。

高い塔に上ると、遥か彼方まで遠望できるので、万が一、敵が襲撃しようとしていたとしても、直ちに発見出来るので、我々に敵の襲来を警戒すべきだとの警告を与えてくれる。この視点から考えると、塔には国防の功能も有る。国境近い地域の仏塔は、例えば、山西の北部地域の仏塔は、敵の動きを監視する役目も果たして、我々を敵の攻撃から守ってくれる事も出来るのである。

中国の山々は青くて緑の木々で覆われていて、河川の水は澄んでいて美しい自然美に溢れているので、我々に風水と関係がある文学や峰の塔を組合せて美を慈しむ興趣も湧き出させてくれるが、実際は、自然美溢れる山や川や塔のある風景は、仏教とは何の関係もない。ただ、造形上仏塔の形式を模倣したくなるのは、嶺も山も河川も湖もそんなに美しくて人々の心を慰めて和ませてくれるのは、実は、自然は、山の嶺や水際を流れる河川を使って、風を鎮めて氾濫を鎮めてくれて、我々を自然の災害から守ってくれているからである。

塔の様式はインドから中国に伝来して来た仏教に沿う様に、ひっそりと流れ込んで来たのだが、インドの卒塔婆仏塔は中国では形状が大きく変化して、もともとの円い覆鉢型の卒塔婆仏塔から高く聳え立つ塔へと変身した。仏塔は雲岡石窟の形制によるもともとの造型美を唐・宋の時期に到るまでずっと維持して来たのだが、中原の中華の伝統文化による転換と変化を通り抜けて中国化した後は、インド風の隠閉された重々しい圧迫感を人々に与えたもともとの卒塔婆仏塔は、開放的で明るくて、中国文化によって我々漢民族という集団に、一体感を産み出させる源へと変身したのには、世界中が驚いた。その後も時代の変遷の影響を受けつつ、更に異なる異民族の好みと風格を付け加えながら建造され続けても、新しい異文化を全て吸収して融合し、中国文化風の美と風格を付け加えて、変身し続けているのである。

その発展の軌跡は、根本的には、仏教の教理から発見された真理と美的感覚が、漢民族に形式上の多様化と複雑化の表現方式を創造させた。この成果は、仏塔の中国化による仏塔の造形美上の成長の過程であり発展であると同時に、仏教の教えも成長している証である。

唐代の仏教芸術の様式は、朝鮮と日本の両国に深い仏教の精神と文化的な影響を与えた。今日、奈良の東招提寺において、我々は唐代の漢民族化された造形美と中国文化のダイナミックな力動感を反映させている仏教寺院と仏塔が、如何に仏教の教えを日本中に盛んに流布させるのに貢献したかを、深く感じる事が出来るのである。


(注1):『根本説一切有部眦奈耶(シナヤ)雑事巻』を参照の事。「その時世尊は、ウバシカに神通力で髪と爪を持って来たので、釈迦牟尼の髪と爪を得たから直ぐに卒塔婆から立ち去った。彼はバトリン天神に卒塔婆の中に百本の枝を傘の様に挿して、言った: 『世尊、私は、常にこの塔をご供養致します。』その様に誓った通りに、彼は塔の中に住んだ。人々は、彼を「塔の守神」か、「ポゴーラ樹の中心柱」という綽名で呼んだ。

(注2):「支提(チャイタ)」の本来の意味は「礼拝の場所」を指す。コマラスワミーに依れば、「チャイタ」ば一つの建築物や、一座の卒塔婆や、ひとつの祭壇や一本の果樹の樹木、等を指すと言う。『法厳義疏 十一』: 「『僧祇律』に依れば、舎利名塔婆と無舎利名支提とが有ると言う。『大日経疏 五』:「復音梵語では、制底と質多体は同じ意味を表す。この意味には、「御仏の卒塔婆に向かって秘かに心の中で話す」の意味も表す。」「支提」は梵語を翻訳した語句。別の翻訳語に、「支帝」、「制底」、「意思が有って集合する事」、「土砂を盛ったり積んだりして卒塔婆を造る」、等の意味から、宗教的な礼拝をする、拝む場所の意味を表す。その為、早期に用いられてこの語の意味は曖昧であって、余りはっきりしない。」

(注3):『大唐西域記』の記載に依れば、カニシカ大塔はガンダーラ地域の都のフロサップラの東南にある。石造りの卒塔婆仏塔で、「層基五級で、高さは一百五十尺あり、その上に更に25層の金銅製の相輪を嵌め込んで高くした・・・卒塔婆大塔の左右には、小型の卒塔婆の「札」が百数十片も林立しており、仏像は荘厳さに満ち満ちているので息を呑んで、どんな言葉でも表現出来ない程思考するのに窮した。」

(注4):原典は、『印度到中國新疆的佛教芸術』p.116、賈應逸、祈小山著。甘粛教育出版社。

(注5):『三國志・呉志・笮融傳』、甘史本、中華書局、北京。

(注6):「爪髪塔」の表現の源は、御仏の爪と髪を卒塔婆塔に納めて仏陀の御霊をご供養した所から始まった語句。『十誦律』に依れば次の通り: 「『我は御仏をご供養致しますから、御仏は髪と爪を私に下さい』と居士が仏陀に願った時に、即時に世尊は『その願いを聞き届ける』と答えられたので、『世尊が私の願いを聞き届けて下さるなら、私は立ち上がって髪と爪をお体から取り除いて、塔の中に納めてご供養致します」と言ったので、その塔は「プートン塔」とか、「海會(ハイホエイ)塔」とかと、呼ばれる様になった。

禅宗寺院の専門用語では、『華厳経疏』に依れば、以下の通り: 「深く廣い哀悼の心で供養心があるという意味で、普賢等は、「海」とは「衆」の意味を表すと言う。「仏陀の御霊をご供養している弟子の居士の悲しみが、海よりも深い」の意味を表している上に、「海が無数の波浪を永遠に立てる」様子が、波浪は無数で先が平たく広くて刹尖っていて、居士の悲しみがその様に無数の波浪でさえも永遠に量りきれないと言う意味を表現する為に、「海」という語を用いて「哀悼心を以って参拝する塔」であると表現しているのであろう。」と見なす。

『演秘鈔』では、「海會」とは、「衆が多い」の意味を指すので、即、「大衆の塔」という意味である。』と看做す。『八大霊塔名號』に依れば、「八方霊塔の概念と意義は、「仏教の経典」から来ている。「青海爾寺」の如くである。

その他は、張馭簑著『中國塔』、山西人民出版社、を参照の事。

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