仏教に関わる石像・碑等の石刻芸術に関する形式と内容について
仏教に関わる石像・碑等の石刻芸術に関する形式と内容について
文/見迅法師
1. 前書き
碑は中国の石刻芸術中でも最も古い形式の一つで、中国民族の祖先を墓葬して敬う風俗習慣と深い関係がある。中国は歴史的変遷を経るにつれて、碑の表記法やその意味的な効果作用も変化したとは言え、碑に刻まれた古代文字及び書法体は重要な累積的体系を示し、文字や書法体の種類は数知れない程多い。それ等の文字体や書法体を表示すものには、例えば、碑石、墓石に刻まれた死者の略歴・徳行の記述文、自然の山崖や岸壁に彫刻された仏像上に刻まれた造像記、塔等の建立由来や由緒等を説明した銘文、一体別の石像上の造像記や五代南唐の「昇元帖」や宋の「淳化閣帖」等の有名な法帖や、昔の名人の筆跡を石に刻んで石摺にした手本用の折本文や経文等の法帖文、石像や石上に刻まれた各種の発願文や書籍類文等の全ては、「中國古代金石学」研究における重要な範疇に含まれる。
石仏像彫刻を主な主流と成す中国古代に石に直接彫刻を施して完成させた仏教芸術は、石刻仏像の形状やその仏像上に刻まれた造像記や碑文の文字や文体によって、石刻仏像と伝統的な各種の石碑文体書法形式を結合させている。民の平安と国の安寧を祈る為に仏像を造って崇拝する仏教が、西方のインドから中国西北に位置する西域地域を経て東方の中国へ伝来して以来、中国はその僧侶を含めた仏教信者達が仏像を拝んで祈る祈祷法に影響を受けた事と、中国中原に固有に存在していた偉大な人物や物事を後世の子孫の為に碑を立てて記念に残す中国中原地方の伝統文化を結合させて、石に仏像を刻んでその仏像の上に仏像の名前や造像の由緒を表す造像記文を直接刻んだ、穿鑿(せんさく)方式彫刻の新手法で御仏像を造像する方式も編み出した。彫刻した御仏の造像を縦長の箱型「龕(こん)式のずし」内部に配置して「龕式のずし」を立碑の様に立てて拝む形状の造像碑を考案した。小さな仏像の上に造像の由緒を表す造像記文を彫り刻んだ芸術的な形式と形状を生み出したのである。
仏教を信じる信者達は、精巧に細工が施された仏像の上に、造像の由緒、造像を願った供養者の氏名、本籍、官職、造像の発願文等の造像記文を彫り刻んだ。時には、ご供養される人物の略歴や徳行を表示する表記文も彫り刻んだ。これらの造像記文が彫り刻まれている仏像碑像を仏教芸術領域においては「碑像」、或いは「像碑」と呼ぶ。
2. 造像碑の造形形式の風格について
造像碑は中国の北朝時代に、民間で仏教の造像形式の一種として盛んに流行した形式であった。中国における「北朝時代」とは、世紀439年に北方遊牧民族の鮮卑拓跋部族が中国華北を統一して「北魏」を建国し、首都を平城(現在の大同)に置いた時から、後の孝文帝の時代に平城から江南の洛陽への遷都を経て、隋が589年に南朝の最後の王朝であった「陳」を滅亡させて南北統一する迄の150余年の間、江南の華人支配の「南朝の宋」と対立した時代を指す。この北朝時代には、西域の仏教諸国との文化交流や交易が以前よりも活発に行われる様になり、その結果、仏教もますます盛んになった時代であった。中国は、段々と北方胡人の鮮卑拓跋部族の伝統文化と、華人の「礼」を基にした「儒教」による社会制度と陰陽の哲理を表す「道教」に代表される中原文化とを融合させて行った。その為、中国における異文化間との融合と変遷は、絵画、彫刻、建築、書法、等の異なる分野の芸術分野にダイナミックで重層的な深みを加味したのである。
仏教芸術分野に於いても、これらの各種の異なる芸術的分野が相互に融合し合って一体化して行った結果、総合的に統一化された中国の仏教芸術文化の表現形式を産み出した。例えば、造像の彫刻法について観察すれば、穿鑿手法によって仏像は浮彫りに見える様な彫刻法で表現してある従来からの造像表現方式に加えて、北朝時代になると、新たに中国思想の哲理を表す「陰陽思想」を表す様な「扁平形の矩形体の表裏の両面に模様が彫刻された新しいタイプの立碑形式の造像碑」の出現や、又、別の新たな表現形式としては、4面体柱状形の石材の四面体柱の表面に多様な模様が彫刻され、正面に御仏の造像が縦長の箱型「龕式のずし」内に配置して彫刻してあり、箱型「龕式のずし」全体を立碑の様に立てて人々が御仏を拝むタイプであった。立体的な四面体柱形状を持つ造像碑、等の二種類を、北朝時代に出現し仏教芸術分野での新しい表現方式の造像碑として認める事が出来る。
また、扁平形矩形式の造像碑でも、仏像が配置されている縦長の箱型「龕式のずし」の上方の最頂部が平たい額面状の空間を持つ形式の物に加えて、新たに箱型「龕式のずし」の最頂部が左右合わさった形状を示す平たい額状の空間部分に、「角無しの『みずち』と呼ばれる竜が、蜷局(とぐろ)を巻いて合わせ竜の模様を造型している様を彫り刻むという、箱型「龕式のずし」の最頂部の空間部分にも造形模様の彫刻を施した新タイプの箱型「龕式のずし」形式の造像碑も制作され始めた。この最頂部の平たい額状の空間にも造形模様の彫刻を刻み込んだ造像碑の出現に、異なる鮮卑拓跋部族の胡人の伝統文化と、中国の伝統的な中原文化の融合の一体化が見出される。
これらの複数の表現法の変化に依拠すれば、北朝時代には、異なる芸術分野が融合して一体化しつつあった文化的・芸術的な流れを仏教芸術分野でも影響を受けて、石仏彫刻造像の新表現法へと変化し発展した事実を反映し表現している事が指摘出来よう。これらの表現法の変化が見出される仏教芸術作品の例としては、例えば、台山博物館蔵の「西魏王俟尼造像碑像」、「唐王玄道母丁等による造像碑像」、「王任表造仏碑像」等がある。これらの造像碑像は、御仏像が配置してある箱型「龕式のずし」内の層より上方の「龕式のずし」の最頂部に当たる平たい額状空白部分に、「角無しの『みずち』と呼ばれる竜が蜷局を巻いて合わせ竜の模様」を造型する様の彫刻が施してある、縦長の箱型「龕式のずし」内に配置されている造像碑像の類である。
例えば、北朝時代に出現した立体的な四面体の角柱状形の造像碑は、秦の時代より以前の古代から宮城の城門や廟や祠の上に設置された「石造りの物見台」や、墳墓や葬儀を司る場所の前方に仮設設置された宗教用建築物の「石闕(せきけつ)と呼ばれる石造りの物見櫓」様式の小型の建築造型物を付帯しており、古代の石闕(物見櫓)を付設した宗教的な建築形式の名残の遺風を受け継いでいる。この古代の遺風を受け継いでいる「石造りの石闕」を箱型「龕式のずし」の最頂部に付帯させて彫刻した様式は、北魏初期時代を支配していた北方遊牧民族の鮮卑拓跋部族特有の簡素で質朴な文化を表現していると同時に、粗くて荒々しい気風にも満ちている。この様な古代の「石造りの石闕(物見櫓)」を付帯した建築様式の風格と特徴を表している北朝時代の仏教芸術作品の例としては、例えば、当館の館蔵する「北魏時代の石造四面像配置の石造四面体柱状碑」を挙げる事が出来る。
尚、北朝時代の造像碑の主流を成す形状的体系は、おおまかに言って、以下の三種類の類型に分別できる。
(1) 第一類は、「千仏碑像」の系統である。縦長の小箱型「龕式のずし」内に彫
刻された相当多数の小さい仏像をぎっしり整然と配列・配置してある造像碑像形式のタイプである。この種の系統は、小箱型「龕式のずし」造碑像形式を踏まえており、「千仏碑」と呼ばれる。この系統の例は、例えば、当館蔵の「東魏時代の楊元蕙制作の千仏碑像」や「唐千仏碑像」等が有名である。
(2) 第二類は、複数の造像類を組合せて、複階層状になっている「龕式のずし」
の内部の各層に分けて配置して碑の様に立てて拝むタイプの系統である。この系統の主な特徴としては、箱型「龕式のずし」の内部に、中国思想の「陰陽思想」を表現する様に表裏に彫刻を施した複数の仏像やその他の像を組み合わせて、箱型「龕式のずし」内に二層、或いは、三層に分けて配置する立て碑形式タイプの系統である。この系統の例としては、当館蔵の「西魏時代の柳寤生造像の釈迦碑像」、「比丘道纂造像碑像」、「隋楊元賢の造像碑像」等が有名である。
(3) 第三類は、箱型「龕のずし」全体が一層を成しており、その中に彫刻した
御仏像が一体のみ収められているか、又は、御仏像一体と左右両側に脇侍の菩薩像二か、菩薩像の代わりに釈迦の弟子像二かの、いずれかの組合せの合計三体の像を並べて配置した系統である。当館蔵の「唐道宗律詩三尊仏碑像」箱の系統に属している。
3. 造像碑の題材と内容について
仏教がインドから西域経由で中国に伝えられたのは、紀元前2年の前漢の時代であった。当時、西域の覇者であった大月氏王の使節が、長安の朝廷に来て初めて伝えた仏教の話を朝廷の官吏が記録はしたが、その当時、中国では仏教は伝播されなかった。中国で仏教が実際に少しずつ流布され始めたのは後漢の時代からであった。
中国と西域で仏教が非常に盛んであった夏国(世紀407-431年)との交流が盛んになると、夏の仏教文化と中国の伝統文化が緊密に結び合い融合した結果、中国早期の宗教芸術思想は、石材に絵画を描く様に彫刻して表現する遺風を残している造像碑として具現化された。
中夏両国の異なる両文化の融合化された遺風を残している造像碑は、仏教が説く天国にあると信じられた「天の宮殿」のイメージの縮図を表現している上に、自然の石窟の山崖や石窟の外壁や内壁に彫刻された釈迦を崇め仏教の教えが反映された夥しい仏陀の造像類等は、仏教の教えの縮図である。
当館蔵の北魏時代の四面体柱状の内部に 彫刻された石造り四面像造像
(1)「石刻図像」の遺風について
「石刻図像」とは、画面に絵画を描く様に石材に題材を彫刻して表現する技法である。画面に絵画を描く様に石材に彫刻で立体的に彫り刻む技法と題材は、中国では前世紀の漢時代から用いられている。例えば、墳墓の下の室の石壁に絵画を描く様に彫刻するとか、祠堂の四方の石壁に石を刻んだ壁画の装飾等は「墳墓葬芸術」の代表的なものであり、古代からの遺風を今日まで伝えている。造像碑は斎葬芸術分野に属してはいないが、数多くの造像碑像は死者を供養する目的の為に造像された物である。
これらの造像碑の代表的な作品としては、当館蔵の唐代の王仁による「亡女(なきむすめ)への哀悼心を表す造像碑」がある。その造像銘文には「亡き女(むすめ)、功徳と資益により自ら安穏に捨身し受形して、眷属及び七世の父母と今上の一切の有形の類、普く此の願いを同にして、早に成仏を得、広く一切を度せん事を」と表示してある発願文の内容に基づけば、既に当時から死者の御霊を弔って供養する為に造像する事は、死者を敬い哀悼心を表すと同時に、残された家族が禍や災難を避けて福が来る様に死者の御霊と一緒になって御仏に願う為にも相当大きな比重を占めていた事が分かる。造像碑は、残された家族にとって宗廟による死者を弔う斎葬を司る祭祀的な精神と共に、己の祖先を尊んで敬う心をも呼び起こす精神の拠り所にも成るのである。
(2) 天国の「宮殿」と石窟造像の縮図について
北朝時代は異なる王朝への禅譲(非武力による王朝の支配権交代)が煩雑に起こり、支配者の権力の攻防も激しく変化し変遷した時代であった。このような歴史的な背景の下に、王朝の支配者達は国家の安泰と社会の安寧を祈求する為に国力を挙げて石窟を中心に彫刻した造像群を創造する事に力を入れると同時に、民間の仏教信徒達も御仏のご恩とお救いの力を借りて、「禍や災難を避けて福が来る様に、また、自分も家族も死後は天国にある「天の宮殿」に入れる様に」と祈願した。このような民間人の切なる祈りは、例えば本館蔵の「北斉時代の道梵・道輝等制作の観世音菩薩造像」に彫られた題記の発願文内容に見出す事が出来る。発願文は次の通り――「願わくば、死せる者は兜率陀天(とそつだてん)に託生して天に召され、弥勒菩薩のお側に奉仕し、常に御仏を見、法を聞き、もし御仏に話しができたなら、先ずこの世に生きる者に安寧と幸せが与えられる事と一切の有形の類にも同じ様に安寧が与えられん事を願って欲しいと祈願する」――の内容に依れば、この願いが仏教信徒の善男善女が造像する為の資金集めをする為の直接的で根本的な原因であったのかも知れない。
通常、造像碑の造像の風格は、同時に石窟造像群の風格の縮図を反映しているが、箱型「龕式のずし」に配置される造像碑は移動性を備えており、しかも配置される造像碑は完全に整っている。これらの造像碑の持つ移動性と携帯的な便利さが有る上に、内部にはミニながら絶対必要な釈迦の像や、必要なら脇侍である釈迦の弟子や菩薩などの仏の従者達像も組合せてあって、「龕式のずし」内に一具として完全に整って配置されている特色によって、仏教信徒は「龕式のずし」一具を碑の如く立てさえすれば、単独でもいつでも好きな時にどこででも、御仏を拝む事が出来る様に便利になった。
もともと仏教の寺の内外に大きな仏像を安置して公開したり、石窟内外の山崖や石窟の内外の石壁に直接彫り刻んだ仏像を信徒たちの拝む対象として石窟内外に安置して公開したりする方法は、大勢の仏教信徒達に釈迦像が安置されている場所に来て貰う「集団用公開式祈祷法」としては便利であったが、信者達には自分が祈りたい時にいつでも御仏を拝みながら祈るには不便である。現在では、一般大衆が仏像を拝みたいなら仏像が安置してある仏教のお寺へ行く以外にも、博物館が造像碑や仏像類を館蔵して一般大衆に公開し展示する方法も次第に取り入れられる事になったのである。
(3) 仏陀に関する故事と千仏の題材について
造像碑彫刻用の題材は、釈迦牟尼、釈迦の弟子、菩薩、天王、力士、比丘、伎楽飛天等々、広汎に亘っており、すべての題材は等しく彫刻される題材となる。加えて、釈迦牟尼に関係有りと伝えられる故事及び千仏の題材は、例えば、「思惟太子」や「白馬辞行」等の釈迦に関係有りと伝えられる故事は、釈迦の足跡の軌跡に呼応した内容になっていて題材としては適している。
490年に北魏王朝の皇帝になった孝文帝は、494年に突然首都をそれまでの河北の平城から江南の洛陽に遷都した。その当時の洛陽は、南朝「西晋」王朝の首都であったが、「西晋」滅亡後の戦乱で荒廃した状態で、軍閥や胡軍の軍事拠点となっていた。孝文帝は首都を洛陽に遷都後、「全ての鮮卑人民は、胡人の風俗習慣を捨て華人の風俗・習慣や言語や文化を吸収すべし」という、「胡俗漢化」政策を推し進めた。こうして北魏は中国中原固有の伝統文化を大量に吸収したのであった。
その結果、胡人の伝統文化と中原の漢人中国の伝統文化の融合の度合いが強まれば強まる程、洛陽を中心とする文化は豊かな表現と深さを加えて行き、仏教文化と仏教芸術の内容も表現力も豊富になった。例えば、遷都後の仏教政策について言えば、孝文帝は遷都直後の洛陽内での仏教の新しい寺の建立を禁止し、洛陽外にのみ建立できると限定していたが、富が洛陽に集中し始めると民間に仏教が復興し、遷都後四十年も経つと洛陽内外の仏教の寺数は一千三百余寺になり、洛陽内外には仏殿や高塔が立ち並ぶ程仏教が復興して盛んになった。
仏教が盛んになるにつれて、仏教芸術もますます盛んになった。所謂、「仏像一体が世に出ると、千体の御仏のご加護が得られる」と言われた様に、人々は数多くの菩薩とは、古い過去の世の御仏が自ら願って再度今世に再出現した姿であると見なして、釈迦の仏教。

化と衆生に協力した。縦長の箱型「龕式のずし」内に配置する仏像の組合せも、この時期には箱型「龕式のずし」内に配置され彫刻された造像の総数量を「一具」として、「龕式のずし」一具内に「仏像一体」を配置するタイプから、「龕式のずし」一具に「仏陀一体と両側に脇侍として菩薩一ずつ計二体」の総合計造像三体を組合せて配置するタイプの物や、「千仏」を題材とした造像碑も出現した。
この「龕式のずし」内の仏像の配置法に変化が見られるのは、この時期の中国では大乗仏教思想そのものが変化している演変的な過程を経ている時期だった事を証明している。
菩薩二、天王七、光背の両側に御仏と弟子六身当館蔵西魏時代柳寤生造釈迦仏碑像(碑陽方形主龕正面図)
(4) 縦長の箱型「龕式のずし」内の造像碑像の組み合わせについて
縦長の箱型「龕式のずし」一具に付き、中に配置される首体として決められた釈迦一体と、脇侍の弟子、菩薩、天王、力士等の造像類の数量は、個々の箱型「龕式のずし」の大きさが異なる故に各造像類の組み合わせの数量も異なるので、固定化されていない。釈迦像一体に脇侍像の弟子や菩薩やその他の造像類を組合せても、毎一具の像の組合せは必ず尊首の御仏像一体を中心にして、両側に脇侍の菩薩、弟子、天王、力士、の各像を配置する。通常、一具の「龕式のずし」に付き三体を組合せる場合には「御仏一体に脇侍の弟子二」か「御仏一体に脇侍の菩薩二」の組合せで配置する。一具に付き五体の像を組合せる場合には、「御仏一体に脇侍の菩薩二と弟子二」でか、「御仏一体と弟子二と天王二」で配置する。一具に付き七体の像を組合せる場合は、「御仏一体と弟子二と菩薩二と天王二」、で配置する。九体の像を組合せる場合には「御仏一体と弟子二と菩薩二と天王二と力士二」で箱型「龕式のずし」内に配置する。
4. 結び
造像碑は、民間大衆の力量によって造像された仏教の供奉物である。造像の制作費は供養者の単独負担か、或いは、集団の共同負担で制作される。造像の題記としては、通常、供養者の氏名、民間仏教信徒によって組成されている宗教団体、「(正規に登録してある)市町村の諸団体」、宗教団体の僧侶やその団体の代表者、平民出身の男女信徒や自称御仏の弟子、「清信士」や「清信女」等を題記に使う。もし、「邑(ゆう)=(邑(ゆう)とは、一定数の「戸」数で組織される「日本での『県・郡』」の様な政治的区分だが、古代中国では異なる下部族による自治組織体の中国式単位を表しており、現代のほぼ『市・鎮・等』を指す)」に属していて、「邑」の最も低い代表的な指導者ならば、「小師」、一定数の「小師」を束ねる「大師」等の称号を用いても良い。死者の御霊を供養する意思ある供養者の身分や権威を表す語を付加して題記として使ってもよい。その他「・・家戸主」、「・・家子孫」、「・・家戸主の祖父母」等の、供養者と供養される死者との親族関係を表す名称を加えた題記を記述してもよいのである。
死者の御霊を敬い供養する意を持って造像する供養者は、造像芸術の推進者であり、且つ、同時に仏法を伝える保護者でもある。供養者は死者の御霊をご供養する事に誠心誠意の一念で造像して造像碑を立てるのであるから、親族の福の為、死者の御霊を救う為、この世に生きている人間を含めた一切の生物の安寧と平安を祈求して、国家への恩、父母の恩、人間を含めた全ての生き物のへの恩、という三つのご恩に報いる為に、造像碑を立てて拝みご供養するのである。その為、仏教における造像碑を公開展示するのは、仏教文化と中国の孝道思想を無理なく結び合わせて実践している事になるのである。
